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0224 人とは 百山 2008/11/10-00:56:28
 霊長目の中には人類のほか類人猿類など3類があるものの、大脳ほかの発達が人類のそれには及んでいないという紛れもない事実もあって、人類は 安んじて万物の霊長などと僭称して憚らぬ。
 
 だが、近年声高な地球環境の現状一つを見ても、そのような自惚れは捨て去ったほうがよさそうと思わずにはいられない気持ちに駆り立てられる。

 しかし、この自惚れというものは、ギリシャ神話のナルキッソスに遡るまでもなく、いつの世も巷のあちこちに散らばっていて、人の世を彩る効用の一つでもあろうか程度の軽さで受け流され、取り立ててその当否が論じられることもない。

 目を私たちの社会に転じて見よう。
 俗に「永田町」と呼ばれている周辺では、このところ「国権の最高機関」によって選ばれた総理大臣が、こともあろうに二代続けてその職を放り出し、その職に就く前には、早々に主権者の審判を仰ぐと公言していた三代目が、<それは俺が決めること>と前言を棚上げにしての頬被りで、あれやこれやと騒がしい。
 <俺が決める>などの「自惚れ」を許すおおもとは、日本国憲法第七条だという。
 その昔、自分の意に副わぬ説を唱える者達を「曲学阿世の輩」と痛罵した総理大臣がいたが、世に○○憲法(学)と称された学者の己に都合のよい説に依拠して「総理の大権」なるものを振るい、「七条解散」の濫觴とした。

 「七条」というのは、天皇の国事行為は内閣の助言と承認によって行うとしたもの。要するに形式行為に関する定めであり、他方、その実質を定める内閣にも恣意的なそれが許されるものでもなかろう。
 
 「総理の大権」なるもののいわれについて、今一度検証されるべきなのではないのか。
 併せて「多数党の自惚れ」を捨て、総理の座のたらい回しなどという児戯を卒業して、自分たちが推した総理がその職を放り出したときは直ちに下野し、事実上選挙管理内閣となる野党に委ねる、このような慣行を確立するぐらいして初めて「万物の霊長」面も出来ようというものではなかろうか。