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0207 夏が来て 千葉の菊 2008/07/23-07:28:47
夏が来ました。
子どもたちも夏休みに入りました。
東京で育った私にとって、夏休みの思い出のひとつに8月15日の登校日があります。(その日が先生方の給料日であることを後で知りました。)
たいていは暑い日差しの中登校し、久しぶりに級友の顔を見て、どうということもなく午前中に帰宅しました。
その日は「終戦記念日」でもありましたので、戦争の話もよく聞きました。
私は戦争を知らない世代ですが、私が子どもの頃おとなはみんな戦争を経験していて、戦争中の苦労話をよく聞かされました。
その話はいつも「被害者」として大変な思いをしたことばかりで、自分たちが大陸や南方でそこに暮らす人々へ大変な思いをさせた「加害者」としての思い出を聞くことは(少なくとも私は)ありませんでした。
やはり、足を踏まれた方はその痛みを忘れないけれど、踏んだ方は踏んだことさえ気がつかないということもあるでしょう。
それでも、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」に対する、「自虐史観」というコトバを使う人たちの、その事実がなかったか、あるいは小規模だったことにしようとする反応から、軍隊ではなく市民へのひどい行為は「いけないこと」あるいは「誇れないこと」であるという自覚をこの人たちでさえ持っていることがわかります。
東京大空襲や広島、長崎に原爆を落としたB29の搭乗員は、下界で起こった阿鼻叫喚をどれほど意識したでしょうか。
「湾岸戦争」以来映像で紹介されているように、TVゲームのような感覚で「命」など存在しない「軍事目標」を単に「攻撃」しただけと思ったのかもしれません。
人の体が肉片となって飛び散り、血だるまになり、焼けこげてしまう姿を目の当たりに見せられたら、彼らといえども思い切って「攻撃」できるものではないでしょう。
結局、殺されていくものたち以外直接惨劇を見ることなく、これらの行為は繰り返されてきたようです。
それは私たちにとっても同様で、「テロとの戦い」のために軍艦への給油をしたり、わが国もクラスター爆弾で子どもたちを傷つけることに荷担している現実を忘れてはなりません。
「戦争を語り継ぐ」ということは「戦争の悲惨さ」を伝えるだけでなく「戦争の残酷さ」、そして戦争は災害のように自然に起きるものではなく何者かが起こすわけですから、何者が何のために起こしているのか冷静に分析し、それを伝えることも忘れてはならないと思います。