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0203 憲法21条(表現の自由など)を再考する。 名無しの探偵 2008/06/23-22:08:08
1、

憲法21条は第一項で「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とし、
続いて第二項で「検閲はこれをしてはならない。」、「通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定する。

この条文は表現の自由の代表的な例をまず具体的に明らかにして国民に「憲法が」保障するその権利の内実を明示しているのである。

2、

この21条をめぐっては一部の見解を除き(法実証主義という立場)表現の自由を他の人権たとえば財産権の保障と比較して「優越的な地位」を与える。

では何故表現の自由に優越的な地位を与えているのだろうか。
この根拠が従来からいろいろと唱えられてきた。
一番ポピュラーな理由が「表現の自由は民主主義を確保するための根幹的な権利である」、という見解である。
この理由は表現の自由の規定には明示されなかったが、民主主義の政治的な実現を保障するための国民の基本的な権利である「知る権利」を確保するには表現の自由が不可欠な手段であることを考えれば納得できる。

国家や社会的な権力が表現の自由に容易に介入でき、干渉することができるならば政治の公正さは確保できず暗黒政治が到来することは戦前の日本の歴史が証明するところであろう。(この問題は最近のNHKへの政治介入による番組内容の変更問題とその最高裁判決の事例が明らかにしているかもしれない。)

知る権利を確保するための表現の自由ということはこうしてその優越的な地位が与えられる大きな根拠のひとつである。

3、

しかし、こうした知る権利に奉仕する表現の自由の根拠には十分なものであるが、それがすべてではない。
知る権利とは直接関係ないかもしれない「表現」も存在し、その表現も自由でなければ表現の自由を十全に保障したことにはならないからである。

たとえばエンターテインメントや芸術作品の表現がこれである。
しかもこうした「表現」こそが現代社会では「政治的な知る権利」以上に重要性を認められた表現になっているからである。

映画、音楽、小説などの表現の問題の方が表現の自由の対象として国民にとっては身近で重要な問題といえるであろう。
それに政治的な表現の事例である報道の自由と芸術作品を
明確に区分できるものでもない。

むしろ、知る権利に奉仕する報道の自由と芸術作品などを
別個に取り扱って表現の自由一般を細分化することはできず、表現一般を同様に保障することに意味があるのである。

ただ、その場合に表現の自由一般に「優越的な地位」を認めるべきではないと思われる。

知る権利と直結する報道の自由(米国ではプレスの自由と
規定する)に優越的な地位が与えられるのは民主主義社会を実現する基底的な権利だからであった。

これと異なり人々に娯楽を与える表現に優越性を言うことは背理であろう。具体的にはポルノなどの表現などがこれにあたる。

また、最近最高裁でも争われた、小説のモデルのプライバシーを侵害したとして提訴された作家の柳美里氏の小説『石に泳ぐ魚』事件がある。

柳氏は友人の、小説のモデルになった人と裁判になり、そこで「表現の自由は優越的な地位を認められているのでプライバシーに勝つ」というような論理を使ったという。

この論理に対して表現の自由の第一人者と見られる奥平氏は「友人とのモデル論争で優越的な地位とか言うのはおかしい、同じ人と人というレベルで優越的だとかいうべき問題ではなく他人の触れてはならないプライバシーを侵しているのに表現の自由の優越性を持ち出すのはお門違いだ」と述べていた。そのとおりである。

表現の自由の問題もこうしてその内容の実質を見て判断すべきものと奥平氏の論評から教えられたのである。
                               以上。