| 一昨日、チベットに対する中国政府の弾圧に端を発する北京オリンピックへのフランスでの抗議運動の様子がテレビで放送されていた。
それにもとづいていろいろと考えたことを書いてみる。
日本では、政治に対して積極的に「異を唱える自由」が保障されていない。異を唱える運動をうまく受け入れたり検討する余地もない。自衛隊派遣反対のチラシを配るだけで捕まったことを思い出しても、そう思う。
今回のテレビのニュースは、フランスでの抗議行動をなにやら危ないものとして報道していたと私は受け取った。
フランスでは北京オリンピックに限らず、度が過ぎれば罰をうけるにしても、デモなどで、異を唱える権利が、国家からも社会の人たちからもかなり受け入れられている。
かたや日本では、抗議行動が妨害という言葉に替えられ、聖火リレーのルートでは、妨害から身を守り、周囲の安全を確保を!と心配されている。
日本では異を唱えると、唱えた側が悪い印象で取られることが多い。
抗議行動と妨害、暴力。これがごちゃ混ぜになって日本では報道されているように思える。
もちろん暴力は認められないことだ。
だが、おとなりの中国がチベットの人たちを苦しめているのは確かなのに、それに対して国際社会が積極的に異を唱えることを、うまく受け入れるよりは妨害のように報道し、日本の国民を不安させるだけなら、なんの解決の提案も検討もなく、いささか無責任な報道に思えた。
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