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0189 「市民」と「軍隊」 千葉の菊 2008/03/18-09:09:07
最近の沖縄における米軍兵の起こした事件やイージス艦と漁船の衝突事故は、私たちに改めて「我々市民にとって軍隊とは何か」ということを考えさせるものとなりました。
日本の憲法改正論者はよく「軍隊は外国の侵略から国民(市民)を護るために必要だ。」といいますが、果たして「軍隊」は本当にその通りの働きをしてきたのでしょうか?
「原義共産制」という社会が実際に存在したかどうかは知りません、しかし人が「社会」という集団で暮らすようになってから「権力」と「武力」は一体のものだったのだと思います。
その「武力」は、まず集団の構成員へ向けられ自らの「権力」を保持する目的で使われたことでしょう。
一方「武力」は外部の集団へも向けられ「権力」の拡大にも使われたはずです。
「武力」そのものが「権力」だったときもありました。
「権力」は自分の領土を拡大するため、他国を「武力」で脅したり、攻撃することなど当たり前でした。
やがて「市民」が国家の主役ということになり「侵略」というのはどうもまずいことではないかということで「軍隊は防衛のためにある」ということになったようです。
それで「侵略」そのものはなくなったかというと、欧米の各国はいわゆる「帝国主義」の時代に盛んに世界中に「植民地」をあさり続けました。
そして「軍隊」(と警察)によって植民地の市民は抑圧され続けました。
本国の市民は「防衛」の名の下の「侵略」のための「軍隊」に駆り出され続けたのです。
遅ればせながら日本もその仲間に入ろうとして欧米のまねをしてきたのですが、「侵略者」同士の利害対立による愚かしい世界中を巻き込んだ戦争に敗れ、「侵略」への責任をとらされました。
そのおかげか、欧米各国はそれまでの植民地政策に対して少しも反省することなく、巧妙に形を変えているとはいえ、未だに同じことを繰り返し、日本の自衛隊もその手伝いに駆り出されています。
そのような目的の「軍隊」ですから、市民とは兵隊の供給源か作戦上の「楯」以外邪魔なだけの存在です。
市民は時に「権力」にとって「敵」にさえなります。
おそらく今チベットでは軍隊が市民に対し銃口を向けていることでしょう。
私たちが自衛隊(あるいは「自衛軍」)に銃口を向けられる日も来ないとは限らないのです。
「軍隊」というものが、たとえ「民主国家」のものであるにせよ、決して「市民」の側にあるのではなく、「権力」のためにあることを改めて認識する必要があります。