呼出完了
0176 真実の国民(権利)保護と、政権交代の必要性 蔵龍隠士 2007/12/17-21:31:48
 国民保護、或いは国民保護法と聞けば、不満を覚える者は少なかろうが、「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律 (国民保護法)」と聞けば、どうだろう?
 先日、参院選前、残業代不払い法案を、政府は「ホワイトカラーエグゼンプション法案」と命名して、成立を図ったが、残業代不払い法案とバレて、法律断念に追い込まれたばかり…。
 しかし、ここ(冒頭の「国民保護法」)には、更に深刻な裏切り、『偽り(イカサマ)』がある。正式名を直視すれば、戦争準備法であることは明らか。また、有事法制の一としての成立の経緯からも、疑いないが、略称としての「国民保護法」が一人歩きするとすれば、国民(諸国民)にとんでもない誤解を与えることになろう。
 また、マスコミまで、この略称を多用することとなれば、(法律の)真実を隠すことに加担することにならないか。(マスコミが)戦争に加担する危惧を覚える。ブログにも、その事情は同じであろう。
 兎も角、政府や議員達の言葉遣い、或いは国民への説得という然るべき活動を、履き違えているのではないか、(下司!ヤロウ)との感が拭えない。経団連にもそのような熱心な下司がいるらしい。

 ところで、「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律 (国民保護法)」とは、その有事の際、実際にどれほど「国民保護」に資することになるのであろうか?
 そこで、現在の平時において、どれほど政府が国民保護に努めているか、検証することで、非常時(戦争準備乃至戦時)でのそれを、占ってみたい。
 例えば、今注目の年金問題、我々の年金受給権(国民皆年金制度)を例にとってみてみよう。政府がどんな態度をとって来たか。今猶、とっているか。
 7/21付記事「年金ミス、総務省が50年放置 (1958年度の)行政監察で(管理のずさん)問題視」にもあるように、個人個人の権利(受給権)の管理は杜撰だった。今では、「宙に浮いた」乃至「消えた」年金記録5000万件の内、4割もが未解明のまま残されるという。挙句が、来年三月までに埒をあけるとの公約は、「そもそも、公約ではなかった」と首相まで言い出す始末に。
 これには、国民も大層、ご不満・不興の由である。至極尤もなことであろう。

 『ウィキペディア(Wikipedia)』年金によれば、「1944年(昭和19年)に適用対象を拡大し、「厚生年金保険」に改称)が制定された。導入の際には戦時中ということで大蔵省及び帝国陸軍から反対があったものの、支払いは数十年先のことであり、当面は戦費調達を目的として日本の国民皆年金制度は始まった。」とあるが、これに年金制度の運用者側の、一面の免れない真実が窺えるように思う。
 つまり、厚生族議員といい、社保庁族議員といっても、それは予算を使う方に偏った関心を持つ大臣・議員たちに過ぎなかったのではないか、(杜撰さなど)見てみぬフリをしていたのではないか、ということ。確かに、『百年安心な年金だ』と豪語してくれた坂口厚生大臣もいたが、当に裏切りが顕になった。

 しかし、最も遺憾なことは、国民、年金の被保険者乃至年金受給者が、この運用に介入する仕組みが、法律には用意されていないことだ。フリをする政府や与党(議員)はあったが…何しろ、政権交代がなかったのだから、議員らはその運用(国会活動等)の中で、気兼ねなく“私利私欲”を追求し、実現する(貪る)ことができたのであった。
 この先もどうやら、全ての年金の権利回復への見通しは明るくないようだ。政府・与党にあっても、そのような決断・雰囲気は伝わってこない。

 戦後ずっと現在に至るまで、最も基礎的な国民の権利ともいえる年金が、このように延々と為政者側から余りに軽く扱われて来たことは、看過できない事実である。ここに、国民のための、政権交代の必要性が認められる!“大連立”など、もってのほか。
 そうであれば、戦時(戦争準備段階)にあって、どれほど政府から「保護」が得られるというのだろうか。
 戦争になれば、一切の国民の権利・自由は保障されず、却って全ての資源・人の権利等が戦争のために費やされる、との戦争体験者、先達の証言は重い。
 戦争と平和(個人の権利実現・確保)の問題は、被害諸国民との関わりも含め、極めて重い。軽々に、「個人保護法」「新テロ特措法」などと言い替え、済ませてよい問題では決してないのである。