| 最近特に感じたことを書きます。
昔、友達のお父さんのことを、私の父が 「あそこのだんなさんは、立派な人なんだよ。 集団就職で丁稚奉公に入って、苦労したけれど頑張った人で今では社長さんの信頼の厚い会社の偉い人なんだよ」
と小学校に上がる前の私に言っていました。
また、私の祖母は、助産院をやっていたのですが、ベビーブームなどで産院は活気づいて、同郷の若い人に働いてもらい、お産の合間に、入院している妊婦さんの食事の世話、掃除など、日常にことを彼女たちに教えていました。そういう頃の写真が私の手元にあります。
祖母も、母も、昔のことを思い出したときにこういっていました。「うちはよそ様の大事な人を預かっているんだから、責任があるんだ」と
また、何人かの女性の話では、今のように女性なら親の家から通勤できる人の方がひとり暮らしより望ましい。などと言わず、
「東京に来た頃は、社長さんの家に住まわせてもらって働かせてもらっていたのよ」
と言う話もよく聞かせてもらいました。
そういう時代の話を聞くと、自分でだれかを「雇う」ということは、ただ「給料を出して働いてもらう。」と言う考え方ではなく、その人を責任もって預かって「育てる」という意味が強かったのだと感じます。
昔が良かった。と言いきれるほど昔を知るわけではありません。 だけれど、そんなふうに人を雇い入れて育てる雰囲気は、だんだんと社会の中から薄れていって、人をうまく育てることのできる人材も少なくなっているような気がしてなりません。
また、育てられ上手な素直な人も減ったような気がします。
人を育てることと、育てられ上手になることの間で、この50年くらいの間にどんな変化があったのか。と想いをめぐらせています。
大事に育てられたことのない人が、大事に人材を育てることなどできないと思う。
部署によっては経費節約のために、ある程度できあがった人を、そこそこの責任で雇いたい。という雇い方は一体いつから増えたのでしょう?
はたしてそこで意図する効果的な仕事ができるんだろうか。
社会が人を育てる。というのはとても大事なことなんだと思っていますが、そう思えばこそ、父や祖母などの話を思い起こすと、目にはみえないけれど、温かい何かがちょっと足りていないような苦い気持ちになるのは私だけでしょうか。
また、人材を育てるのがうまい人間も必要なら、反対に育てられる側も冒頭の丁稚奉公のおじさんの話ではありませんが、学歴に関係なく、うまく育てられる賢さも大事。人材は、社会の鏡みたい。どちらかが貧しくなれば互いに影響が必ずある。
最近の私はそんなことをつくづく、考えています。
国家の国際協力だの企業の社会貢献も悪くはないですが
「よそさまの大事な人を預かって育てている」
と言う意識がそれぞれの組織の中にあるのかと問えば、そんな意識は時代遅れなのか・・・
それも、世の中を世知辛くしている原因だと思えるんだよねぇ
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