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0173 風船爆弾 宮天狗 2007/11/26-07:30:18
 日本が敗戦間際に開発した新兵器「風船爆弾」については、私も勤労動員先の東京第一陸軍造兵廠で、その信管を作っていたからある程度のことは知っていたつもりでした。桜井誠子さんの「風船爆弾秘話」は内外の取材が行き届き、私自身戦争に加担していたことを、改めて気づかせてくれる貴重な労作です。

1944年11月から45年4月まで、陸軍が打ち上げた風船爆弾は9300個(海軍は布製を3個)。うち900〜1000個が秋から冬にかけて時速200〜300キロで吹く偏西風に乗ってアメリカに到達しました。しかし数箇所で小規模な山林火災が起きたほか人的被害はありませんでした。

 風に乗ってはるばる太平洋を越えてやって来た爆弾に驚いたアメリカは、大空からいつ爆弾が降ってくるか分からないとなったら、国民がパニックに陥る恐れがあるとして厳重な報道管制がしき、放送局や新聞社も全面的に協力したため、日本で次の事実が知られたのは戦後もかなり後のことでした。

 日本が打ち上げを止めてから1ケ月以上たった5月、オレゴン州ブライでピクニックに来ていた日曜学校の生徒が、立ち木にぶら下がっていた風船に触り、妊娠中の牧師夫人と子供5人が亡くなりました。アメリカ本土唯一の死者としてブライの悲劇と呼ばれ、慰霊碑が建っています。

 もっとも辛く手間のかかる和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて風船を作る作業は、手先のやわらかく繊細な女学生が大量動員され、昼夜2交代制で働く乙女たちには栄養剤としてヒロポンが支給されました。敗戦後大量の覚せい剤中毒者を生んだ元凶は国、いや戦争だったのです。

 小倉造兵廠で働いたいくつかの女学校の生徒は、自分たちがお国のために懸命に作った風船爆弾によって、犠牲者が出たことを知り動揺しました。しかも被害者が妊娠中の若い女性と子供とあって深く悲しみ、せめてものお詫びのしるしとして千羽鶴を折って慰霊碑に捧げ、遺族も快く受け入れました。

 彼女たちもはじめは日本はアメリカの無差別爆撃と原爆投下によって数十万人の犠牲者を出しているから、自分も被害者だとばかり思っていた。それだけに自己の行為が他者の命を奪うことになった事実に受けた衝撃は大きかったに違いありません。

私も自分を軍国主義と東京空襲の犠牲者としか捉えていなかったから、なんと加害者でもあったと知ったときは驚きました。加害者よりも被害者のほうが居心地がいいから、どうしてもそこにあぐらをかいてしまうのです。

戦争は勝者敗者を問わずほとんどあらゆる者を被害者であると同時に加害者にしてしまう。戦後62年余り日本は平和憲法の下、一人として殺すことなく殺されることもなかった。被害者も加害者も生まなかった。とても貴重な事実ではないでしょうか。