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0172 常識(理性)の必要性について くぬぎ林 2007/11/19-22:57:45
 今、私の手元に昭和19年7月に出版された「日本主義的死生観」という妙な小冊子がある。
 これは、18年10月、学徒(文科系)の徴兵延期が廃止され、何万人かの学徒が徴兵され、栄養不足の青年たちが重い三八銃(注)を担いで、雨降る神宮外苑を行進したのに呼応して、出陣学徒への「はなむけ」として、当時の仏教のほとんど全部の宗派の親分たちが主になって、これらの学生たちをおだてる美文で、勇ましく死んで来いと書きなぐったエッセイ集である。
 (注)明治38年に日本陸軍の歩兵銃に制定され、その   まま第二次大戦まで、歩兵の主要兵器であった。

 坊主たちが死生について論じることはかれらの勝手だと思うが、仏教徒が死を甘受することを説くのと、国のために死ねとか(戦争に行くということは人殺しだということには一切ふれていないが)人殺しをして来いというのは、仏教徒、とくにその教義を説く人間がいうことは、まったく仏教に反した、自己否定もいいところである。
 そしてここに書かれている愛国主義の言語の荘重めいた狂気と、学徒への阿諛に満ちた文章は、今読んでも吐き気がする。
 
 私は時代に流されてこういうことをする人間は許せないが、妻はこういったことを書くのを拒否すれば、あの時代なら引っ張られたかもしれないというが、私は単に、坊主たちがなんの見識もなく時流に乗っただけだと考える。
 
 戦争は「戦争というのは人殺し」だというきわめて自明な常識を失わせるものであるということを痛切に思い知らされた。 ここに用いられている言語や、当時流行した「悠久の大義」だとかその類の言葉は、わたしにとっては当時も今も意味不明であるが、そのような言葉を鵜呑みにして死んでいった人々が大勢いたことを考えると慄然とする。
 
 私たちにとって一番大切なことは、妙な標語や意味不明な言葉に酔うことだけは、世相がどうなろうと絶対に拒否して、常に常識(理性)を堅持することだと思う。
 
 常識的に考えれば、9.11となんの関係もない、アメリカがあるといった、核も大量破壊兵器もなかったイラクではなく、そこに大量の兵器、兵員を持って無茶な侵略をしたアメリカのほうがテロ国家であって、それを支援するのがテロを防ぐことだというのは、とても考えられないことである。
 フセインのイラクがそのままでも、アメリカが軍産複合体だといってアメリカを侵略するとは到底考えられない。戦争をすることで常識を失ったアメリカ人にとっては、イラク人がいくら死んでもそれは人殺しではないのである。