呼出完了
0163 考える教育を くぬぎ林 2007/09/17-17:24:10
 新聞は自民党次期総裁のことで騒いでいるが、私にいわせれば福田、麻生は両者ともテロ特措法、すなわちテロを増やすための悪法の継続をうたっているから、どっちが総裁になっても両者とも救いがたい。麻生がなってやたら暴言、失言するほうがいいと思っている。
 
 したがって、このバカげた騒ぎの合間を縫って、日本の国家百年の計である教育について、日頃考えていることをのべてみたい。
 ここのところ、教育についていろいろ法律ができ、ジャーナリズムもいろいろ言っているが、不思議に一番肝心なことは無視されている。
 教育の一番の目的は、本来ならば人間の思考力を養い、自分できちんと考えられるようにすることだと思う。自分の考えを言うだけでなく、きちんとした思考をしてと私は言いたい。
 ところが、この教育の基本的な目的がほとんど問題にされず、愛国心などと言う危険なものが強調され、ダンス、武道など本来学校教育に必要ないことばかりが騒がれているのが不思議である。
 道徳など、それこそ「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」の一言ですむことを、年間を通じて学課目として教えることが表面化している。
 物を考えるためには本は少しは読んだほうがいいかもしれないが、このことは、まあ比較的いい教育だったが、しかし特権的だった旧制高校でもその傾向が強かった外国のイデオロギーをそのまま覚えて、カントさんやヘーゲルさん、マルクス、レーニンさん、やスターリンのおっしゃること、私にはまったくわからない西田さんのお話などを鵜呑みにすることをいうのではない。(その点では、この頃共産党がマルクスさんの説をやたら引っ張り出さないのは結構なことだと思っている)
 こういった、人の考えを鵜呑みにする教育が、大学に行く人が50パーセントになっても復活するのは少しもいいことだとは思わない。

 そして、なぜ、自分できちんと物を考えられるようにするのが教育であることが無視されるのかを考えてみると、みながそうなると、「神風」とか「鬼畜米英」とか「民営化」といった単純なスローガンで人を騙すことができなくなって、ほんとうは我々の意見を代弁すべき為政者たちが困るからであろう。しかし、こういうことができることこそが、民主主義には本当はとても大切なことのはずである。 リーダーなどという、野蛮国アメリカで流行っているものはいらないのである。