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0144 ある反戦映画 流水 2007/05/20-14:49:41
いまだに忘れれない一つの映画があります。
蔵原惟繕監督の【執炎】という作品です。
彼の戦争に対する見方を象徴する作品だと思います。

執炎は、1964年制作の日活映画です。60年安保闘争と次の大学紛争との谷間の時代、戦争の影響というものを人間の精神性の奥底まで覗き込んだ作品が生まれ始めました。映画でいうならば、野間宏原作の1952年「真空地帯」(山本薩夫が監督。出演:木村功、岡田英次、沼田曜一、薄田研二、神田隆、下元勉など)のような社会主義リアリズム作品からの脱却が図られた時代です。

映画の粗筋は、以下の通りです。
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日本海の波が打ち寄せる山陰の浜辺で、一人の女が命を断った。七年前種々にとりざたされた噂も、今では人々がその青春を讃え、美しい供養をいとなんでいる。浜の男拓治(伊丹十三)が初めてきよのに会ったのは、十三の時であった。やがて水産学校を卒業した拓治は山で再びめぐり会ったきよのに、神秘的な美しさを感じた。

きよの(浅岡ルリ子)は、山奥の一角にある平家部落の娘であったが、二人の愛情は古い因習を破って結ばれた。しかし、二人の結婚生活は、戦争のため中断をよぎなくされた。召集された拓治を送ったきよのの節操ある生活は、村人の賞讃の的であったがきよのの胸中は、空しいものがあった。戦局の激しさにつれて、戦死者もふえ、拓治も佐世保病院で傷病生活を送っていた。右脚の損傷により生命の危険にさらされた拓治は、きよのの看病で奇蹟的に回復した。水入らずで闘病生活をするため建てられた山小屋で、日増に笑い声が聞こえるようになった。そして漁師として逞しく働きだした拓治ときよのは、戦争の恐怖におののきながら、狂ったように愛を確かめあっていた。

そんな時きよのは親友の泰子(芦川いずみ)の夫が戦死したのを聞き、恐怖から拓治への独占欲は深まっていった。ついに、拓治のもとに赤紙が舞いこんだ。しかし、一途なきよのの姿に拓治は、言葉をのんだ。愛蔵の能面をつけて舞うきよのの姿は、きよのの執念の叫びであった。拓治は出征した。きよは拓治の生還を祈って極寒の神社でお百度を踏んだ帰り道、赤紙を運んだ郵便局員(宇野重吉)に殴りかかった。きよは徐々に精神を病んでいった。
思いつめた疲労から倒れたきよのは、こんこんと眠りつづけた。六月の初め拓治は南の海に散華した。事実を知らされず、やがて意識を回復したきよのは、仏壇の拓治の写真を見て全てをさとり、黒髪を切り仏壇に供えて、拓治の命を奪った海に静かに身を沈めた。
・・・・・・・・・・・・・ http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD21525/story.html

わたしの記憶の中では、浅岡ルリ子の美しさにひきこまれたことと、宇野重吉扮する郵便配達員に殴りかかった場面だけが鮮やかに脳裏に残っています。
赤紙を運ぶ郵便配達員が、浅岡ルリ子扮するきよには、まるで死神のように見えていく、という心の流れが見事に描かれていました。

また、宇野重吉扮する郵便配達員がよかった。あの独特な風貌で、山道を歩く姿がなんとも言えず素晴らしかった。真面目一筋、ただひたすら郵便物を運ぶ人間が、死神のように恐れられる。この人の心の変化に戦争という時代の影が、見事に表現されていたのです。

設定は、日本海側になっていますが、わたしは四国の祖谷部落を思い浮かべてみていました。あの祖谷部落の険しい山道、かずら橋をわたるときの恐怖。そういう厳しい環境の中で、夫との愛に全てを賭けている若い女性。
【真空地帯】のリアリズムとも、戦争美化のナショナリズムとも無縁なところでこの映画はつくられています。

この映画は、一種の【御伽噺】なのです。二人の若い男女が作り上げているお伽の世界(精神世界)が、現実によって壊されていく話なのです。
これが見事な反戦映画になるのです。現在の戦争論議は、いまだこの映画によって開かれた精神性を凌駕していないのではないかと思います。