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0140 修士論文の書き方 名無しの探偵 2007/04/24-19:46:05
今回改めて分ったことがあります。

私は大学卒業時に卒論を書いた経験はありません(明治大学が卒論を省略したため)。それもあってか、とにかく先行研究を俎上にのせて、批判するなり賛同するなりして、序論−本論−結論にもっていけばよいものと思っていた次第です。

それで、具体的には長谷部恭男氏の立憲主義についての見解・主張を取り上げ、以下のような展開を予定していました。

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序論(長谷部論文の骨子):

長谷部氏は、立憲主義というのは、比較不能な価値を比べて優劣をつけたり互いに対立することになれば取り返しのつかない闘いに発展するとして、近代初頭の「宗教戦争」などを例に引用。

立憲主義が登場した背景には、『こうした国家間の比較できない価値の対立を防ぐために、自己の価値観を他者に強制しないという原理が確立される必要がある』とする考え方が存在した、という。

ここから長谷部氏は(私の考えでは)飛躍して、そうであるなら、日本国憲法が憲法第9条で一切の武力の保持を否定して国家の交戦権を否定するのは、原理的にはともかく、裁判規範と解釈することは一定の価値の強制になり立憲主義に反する、という結論を導きだす。

本論&結論:

長谷部氏は『自己が信奉する価値を他人に強制することは立憲主義に反する』というが、憲法の原則というものは元来、一定の価値を憲法典に規定してそれを主に政治権力に守らせるという規範なのである。

確かに比較不可能な価値を対立させることは、例えば信教の自由の原則などからできないが、一定の価値を権力に守らせるというのは、憲法の基本的人権などに現れる普遍的な方法である。

表現の自由の原則などで、たとえ個人のプライバシーを侵害することになっても、その個人が「公人」であれば、その表現は認められるのであり、あきらかに公人のプライバシー権よりも、表現の方の価値を憲法が優先させているのである。こうして長谷部論文は説得力のある立論ではない。

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ところがこのたび卒論指導に赴いたところ、指導助教授が曰く、「修士論文というものは、あなたのレポートにあるような立憲主義と違憲審査制度の歴史を書いても通らないのですよ。やはり今まで先行研究で明らかになっていないことを述べてもらわないと。」

ということは、結局修士論文は特許申請や発明の問題と類似してくるのか。「誰も言及していないところを探して発表せい」ということなのか。こういう学会のルールが今回分りました。

ただ、かの助教授にもいいところがあり、「今度公法学会が10月にあるのであなたも来ませんか、そこで憲法学者を紹介したい」と誘ってくれたのでした。そして助教授のアドバイスとして、私には「平和的生存権」を一貫したテーマとしてやってもらいたい、ということでした。

追伸
さて、かの助教授との間で実は「違憲審査制度」を巡って
「激論」が交わされたことをここで一言します。

違憲審査制度にはついて回る難問が存在する。
「国民主権とデモクラシーの世の中で、どう見ても国民から距離の点で議会よりも遠い立場にある裁判所が、なぜ、議会のつくった法律を無効にできるのか」、もっとはっきりいえば、「なぜ、議会が{これが憲法の意味だ}としているものより、裁判所が{これが憲法の本当の意味だ}とするものが優越するのか」というあの難問である。

この問題を巡って私は違憲審査制度のその理由として多数決の乱用から少数を保護することが挙げられると答えた。
つまり問題の法律で権利を侵害された少数者が異議を申し立てる権利を定めたと。

これに対して助教授は多数が決めた法律をなぜ少数者が無効にできるのかを聞いているのであるからそれでは答えにならないとした。

今なら私は多数決の乱用というのは選挙制度と議会制の欠陥に由来する、つまり多数の専制が個人を圧殺する事態に歯止めをかける制度であると答える。
                       以上。