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0132 自治・自律の人々 笹井明子 2007/03/06-16:47:53
安倍内閣の誕生以来、「保守」対「革新」、あるいは「与党」対「野党」という従来の政治的対立構造では説明しきれない動きが、日本社会の中に生まれていることを感じる。それは、安倍晋三氏の打ち出す「美しい国づくり」に、大きな違和感、更に言えば拒否感を抱く人たちの、マグマの胎動といえるのかもしれない。

今年2月に受講した法学館憲法研究所の連続講座「世界史の中の憲法」(第2回「『人権』という考え方の歴史」)の中で、「市民」とは「自治・自律の能力を持つ人々」という定義に出会った。

現在、民主主義社会で共通規範として認知されている「人権」(=「所有権」「身体の自由」「思想・意思伝達の自由」)は、世界史的に見れば、ヨーロッパの近代市民革命において確立された考えであり、それは市民革命の担い手である「市民」の現実的な要求がもとになっていた。そして、その「市民階級」の現実的な要求が「人権(Human Rights=人間として正しいこと)」として広く受け入れられたのは、そこに個別的利害を超えた「人としての生存のため」という普遍的な正しさをまとう努力の結果だったのだ、ということである。

翻って日本国内を見てみれば、私たちは戦後60年、現憲法の灯りに照らされて、「人権」を当たり前のこととして受け入れ享受してきた。そして気がついてみれば、「人権」の担い手の自覚のもとその価値を維持するために不断に努力する、といったこともなく過ごしてきたのである。その意味では、時々に聞こえてくる「日本には民主主義が育っていない」「日本にはこれまで市民が存在しなかった」という指摘には、うなずけるものがある。

しかし、受身であったとしても「人権」の価値を体験し、「公」を「個」の上に置くことの危険を感知する感性が身についた人々(=私たち)にとって、安倍晋三内閣の戦前回帰ともいえる国家主義への指向性は、自分たちの中に眠っていた「自治・自律の精神」を刺激し目を覚まさせるに充分だった。

「自由な精神的独立人」(「改憲政権・安倍晋三への宣戦布告」(立花隆・月刊現代10月号)、「思考する世論」(佐藤優「獄中記」岩波書店)などの言葉が、いま人々の間で共感を持って語られている現象は、とりもなおさず「自治・自律の精神」が危機的状況において目覚め、胎動し始めた証と見ることもできる。

折りしも、浅野史郎・前宮城県知事が、来たる東京都知事選候補者として、「無党派層」あるいは「市民」の声に押される形で、急浮上してきた。浅野さんがなぜこれほど待望されるかを考えるとき、宮城県知事選の際の彼の言葉「県民一人ひとりが主役の選挙」が想起される。この言葉は、「人権」を維持するための「政治」において、一人一人がその担い手となることの必要に気付いた「自治・自律の精神」の人々の思いと重なり、呼応する。

現憲法公布から60年。遅ればせながら、私たちは真の人権の担い手として、主権者として、党利党略、政党の論理とは全く違った立脚点で、歩みを始めようとしているのではないだろうか。