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0128 人を殺すことについて くぬぎ林 2007/02/05-12:37:24
 今日は頭がよく働かないので,(いつも?)ただわたしの信念を述べさせていただくだけにする。。
 わたしは死刑廃止論者である。これは、個々の人間はいずれ死ぬが、人間が人間を殺すことは絶対に悪だと思うからである。
 したがってもちろん、殺人という犯罪も、どんな事情があってもまったく許せないとわたしは考えている。
 しかし、殺人者を死刑にしても、死者は戻ってこない。この頃、被害者(もちろん殺人の場合、第一義的な被害者はもうこの世に存在しない)を法廷に出そうという説があるらしいが、法を破った場合、法が犯罪者をさばくのであって、その被害者の〔復讐〕として法があるわけではない。この頃、被害者の近親者が世間に加害者の厳罰を望み、それをマスメディアが肯定的に取り上げるのもいいことだとは思はない。
 殺人が無罪になるのは正当防衛の場合だけである。突き詰めて言えば、当人が殺されるのを防ぐためだけである。
人間個人の場合はわたしはこの自衛権を認めざるをえない。
 わが国の場合、憲法九条があるにもかかわらず自衛権があると主張する人は、国家にもこの自衛権が本来的にあると考えるからであろう。
 しかし国家というのは、個人とは違いその存在が自然的な超歴史的な存在ではなく、人間が一時的に作り出した一つの機関に過ぎない。
 特にヨーロッパで強調された自衛権を持った独立国家というのは、ほぼ十九世紀以降のものである。
 この国家というのが国民の生命を守るのは、この機関の義務的なものだと考えてもいいが、そのために国家が、いかなる形でも、戦争をして国民を殺すのは間違いである。(国家という日本語も少し妙である。国は家ではない)
 何度も愚かな大戦争をした人類は、もうそろそろ十九世紀的な国家観から抜け出したほうがいい。
 アメリカ合衆国や近年独立した国々、あるいは独立を確保した中国といった後進国が、国家主義的な傾向が強いのを真似するべきではない。
 
 日本でこの頃、保険金を得るための人殺しとか、子供の虐待と殺しがよくあることを考えると、これは「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という昔からある倫理がボケてきたことに関係するとわたしは考えるが、愛国心などという妙なものが無いからではない。保険金を人に奪われたいために殺されたい人や、しつけと偽装する虐待を受けたい人はいないから、この倫理のほうが大切である。