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0122 非戦の誓い 宮天狗 2006/12/25-06:57:32
1941年12月8日の真珠湾攻撃によって英米両国と戦端を開いた日本軍は、フィリピン諸島やマレー半島、南太平洋諸島に電撃的に進攻、難攻不落の要塞を誇った香港、シンガポールも難なく制圧して人々は勝利の美酒に酔いしれました。

彼我の優劣が逆転したのは、戦力が優勢でありながらレーダーの活用を誤り、主力空母4隻を失った42年6月のミッドウェイ海戦から。その後は物量の圧倒的な差が次第にものをいって局部的な勝利はあっても大勢は変わらず、八紘一宇の夢はとみに色あせ本土決戦、一億玉砕と絶望は深まってゆきます。

一方、戦火の拡大に伴いたった一枚の赤紙によって、農村から漁村から都会から700万人を越える男性が徴兵され、うち230万人が亡くなり、その7割は死闘の演じられたガダルカナル島(餓島)が象徴するように、名誉の戦死ではなく餓死か衰弱死。しかも170万人は遺骨も戻っていません。父を夫を息子を待つ家族の下には黒枠の公報だけが届けられたのです。

だから私たちは誓った。「二度と戦争はしません」と。

国内でも制海権と制空権を奪われて物資は急速に底をつき、末期になると人々はつぎはぎだらけの衣類をまとって寒さをしのぎ、床芋や飼料用とうもろこしでつかの間の飢えを満たす毎日が続きました。

そこに襲い掛かったB29爆撃機とグラマン艦載機は東京、大阪など全国82都市を無差別攻撃して20万人の命を、広島、長崎では一瞬の閃光が10万人の命を奪い、都市戸数の30%に及ぶ221万戸が焼失、罹災者は920万人に達し、凄惨な地上戦に巻き込まれた沖縄県の民間人犠牲者は12万人。戦場に赴くも国内に残るもともに地獄と化したのです。

だから私たちは誓った。「二度と戦争はしません」と。

もちろん戦争の犠牲者は日本人に限らず、無差別爆撃の先鞭をつけたとされる重慶爆撃や南京大虐殺など中国人の犠牲者は軍民ともに莫大な数にのぼり、またパターン死の行進は捕虜虐待の典型的な例として、連合軍による原爆投下の論理に繋がったといわれます。

だから私たちは誓った。「二度と戦争はしません」と。