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0120 有根のナショナリズム 流水 2006/12/12-12:34:11
「落葉帰根」落ち葉は、根に帰る。中国残留孤児たちが、好んで口にする言葉だそうだ。
いつの日にか日本という根にかえりたい、という孤児たちの切ない願いが込められていたのでしょう。
昨日、残留孤児たちに国の賠償責任があるという判決が出た。この判決の中身については、論評は避けるが、きわめて当然の判決だと思います。

先日、NHKBS2で満蒙開拓団の悲惨な運命を描いた作品が放映されていました。日本政府の「王道楽土建設」の掛け声で、新たな新天地を満州へ求めた20数万の日本人の運命は、それこそ[棄民」[難民」そのままだったのです。
ソ連軍の参戦を知った関東軍は、新京周辺に軍隊を集結させます。ところが、満蒙開拓団の人たちは、新京よりはるか外に住んでいました。
関東軍は、満蒙開拓団の人々にソ連軍参戦の可能性も、関東軍が新京周辺に異動したことも知らせませんでした。

そこへソ連軍が侵入したのですから、その後の悲惨さは筆舌に尽しがたいものがありました。
当時の悲惨な経験を涙ながらに語る生き残りの人々、残留孤児の人。胸を痛めながら、開拓団の人々を見捨てた生き残りの関東軍兵士の証言。
満州の異国の地で果てた人約8万5000人超、行方不明者1万500人超。

そういう悲惨な運命を辿った満蒙開拓団の子供たちを助けた中国人の養父母たちがいました。
「わたしは、子供を捨てて逃げた日本人の事を冷酷だとは思いません。・・・捨てなければ間違いなく皆死んでいたでしょう。捨てたからこそ、子供は生きられたのです」 これは、残留孤児の養父母の一人の言葉だそうです。
ここには、国策に翻弄された人間に対する限りない同情があります。抗うことのできない運命に翻弄された親の心を思いやるやさしさがあります。
彼らの目に映じているのは、国家・国民などという枠組みではない。同じ人間としての連帯感なのです。
ここには確実に国家機構と無縁に思考する確かな人間の姿があるのです。

実は、【アジア的】という言葉には、国家機構とは無縁な【人間としての連帯】という発想があるのです。アフガン戦争前、アフガンを旅した人々は、彼らがいかにお客を大切にもてなすかを驚きの目線で語っています。これは遊牧の民に共通する習慣です。
ここに見えるのは、国家機構を超える民衆の根っ子にあるナショナリズムとでも言うべきものなのです。
現在でも、イスラム圏には確実にそれがあります。世界中に広がったイスラムの扶助組織には脈々とその精神が息づいています。
同じく、中国にもそれがあるのです。【人治】というのは、国家機構を超える民衆の根っ子にあるナショナリズムの別な表現なのだと思います。
加々美光行愛知大教授は、このようなナショナリズムを有根のナショナリズムとなずけているそうです。(11/28付け朝日新聞)

西欧各国にはここが分からないのです。彼らは、[国家」[国民]という枠組みでしかものが見えないのです。だから、イラクでもアフガンでも足を掬われるのです。
過去の日本人にはたしかにそれがありました。戦国時代末期、シャムやルソンに根付いた日本人がかの地でいかに活躍したか、山田長政の例を持ち出すまでもないことです。
明治時代、中国の辛亥革命にどれだけ多くの日本人が協力したか、これも国境を越える人間の根っ子にあるナショナリズムなのだと思います。

21世紀の世界は、西欧近代が作り上げた【国民国家】というシステムが、国家機構を超える民衆の根っ子に横たわるナショナリズムにどのように対処するかが問われているのです。
コンピューターを中心とする情報ネットワークは、簡単に国境を越えてしまいます。
もはや、「国民国家」VS「国民国家」という図式では統治できないのです。このことは、イラク戦争の失敗が証明しています。

翻って日本です。安倍政権下で行われようとしている教育改革は、国家によるナショナリズムの再構築でであると思います。
これが、21世紀の世界にそぐうものであるか、それとも時代の針を逆戻りさせるものであるかについて、本当に真剣に考えないと、いずれ日本は世界の孤児になる可能性が少なくないと考えます。