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0119 戦時下の勇気と良識 2006/12/05-21:40:51
 12月8日の第2次世界大戦開戦日が近づいてくると、父の話を思い出す。

 昭和16年、父たち文科系の大学生は、3月の卒業を早めて12月に卒業、兵役となることになった。卒業の日も近いある日、法学の授業で、当時の慶應義塾大学法学部長であった板倉卓三教授は、「これが最後の授業だ」と学生たちに「国際法」を教えた。

 そして最後に「この戦いは、日本は必ず負けるよ。英米が勝つ。君たちは命を大切にしなさい。戦後日本の復興には、君たちが絶対に必要なのだから」と言ったそうである。

 2ヵ月後、父は故郷の八幡宮で、入営して出征する父たち新兵を送る町の人々に囲まれ、代表で別れの挨拶をした。

「日本大勝利の上、故郷に凱旋し、再び皆様にお目にかかりたいものです」と。

 駅までの道、川を渡る橋の上で、町長さんが小さな声で父にささやいた。「あんな挨拶をしたのは、あんたが初めてじゃ」。当時は、「一命を捧げ、死んでお国のために尽くします」が、普通の入営の挨拶だったのだ。父は私たちに、「板倉教授の言葉が、心に深く残っていたのだな」と語った。

 翌年の最後の授業は、戦時国際法だったそうだ。「君たちも捕虜になることがあるだろう。戦時における捕虜の取り扱いは・・・」と教授が語りだすと、教室では失笑が起きた。

 当時の学生たちは、戦陣訓で「生きて虜囚の辱を受けず」と教え込まれており、捕虜になることは即ち自死することだった。しかし教授は、淡々と「捕虜の取り扱い」について語り続けた。

 学生たちはやがて咳一つなく聞き入ったそうである。このときも教授は「たとえ捕虜になっても命を大事にせよ。また捕虜とした敵兵は大切に扱え」と教えたのだろう。

 戦時下に、己の信念をもって語る教授の勇気。そしてその話を他に漏らさぬ学生たちの良識。父のクラスには、中将はじめ高級将校の息子たちもいたという。「日本は負ける」の一言で非国民呼ばわりされ、職も失い、時には入牢もあり得たと聞く戦時下にも、こうした場があったのだ。

 父の級友たちは、三分の一が戦地から帰ってこなかった。