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0116 「教育」について考える 千葉の菊 2006/11/16-04:36:56
最近(といってもだいぶ経ちますが)学校と教師について掲示板で少々取り上げたので、「教育」について少し考えていることを書きたいと思います。
「教育」というものを私はふたつの立場から定義しています。
ひとつは「子どもを社会の一員として受け入れるためにその成長を支援する社会の働き」
もうひとつは「人ひとりひとりのそれぞれ持てる能力を伸ばしたりや生き甲斐を学ぶこと支援する社会の働き」
です。
当然のことながら、いずれの場合も「学ぶ」主体はあくまで本人ですので、社会にできることはあくまで「支援」に過ぎません。
ですから「学ぶ」ということは決して「知識(社会的に認知された)」を覚え込むことでは決してありません。
学ぶ主体であるひとりひとりが必要に応じて選んだ知識を基に様々な事象について考え判断するわけですから、画一的な知識を調べるテストによって序列を付けるなどということはナンセンスです。
OECDではおそらく私と同じような考えから、加盟国の15才の人たちを対象に国際的な学習到達度調査を行っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/PISA
2003年におこなわれた調査の結果、日本の人たちは「読解力」の順位が落ちたとかで文部大臣はじめ大騒動になったようです。
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04120101.htm
http://www.nier.go.jp/arimoto/anncment/tokyo_u_sympo.pdf
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/sokutei/pdf/200608/arimoto.pdf
ここで重要なのは、各国の成績順位よりPISAが求めている「学力」の中身です。
「リテラシー」というコトバがしばしば登場します。
本来の意味は「読み書き能力」ということのようですが、ここで用いられているのは「事象を自分の考えで分析し理解できる能力」というべきものです。
つまり「教えられたこと」を覚えるのではなく、教えられていないことでも自分の力で解決できる能力といったものでしょうか。
PISAの各項目でトップレベルの成績を上げた国にフィンランドがあります。
この国の学校では「競争」や他との成績の比較という考え方がありません。
http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200502250173.html
ひとりひとりの持てる力を伸ばすにはどのような援助をすべきかということが教師の一番の仕事です。
教師は決して高給ではありませんが、社会的に尊敬され、専門家として認められています。
また具体的なカリキュラムについて、教師に最大の権限が与えられており、それだけに責任も重大です。
学校で学ぶことは「リテラシー」に象徴される、自分で考え判断する力です。
知識は生涯学んで得ることができます。
大切なことはその「知識」を社会生活に活かせる力です。
今、政府与党が何が何でも成立させようとしている「教育基本法改正案」は、今まで述べた考え方とは正反対の「教育」をめざすものとしか考えられません。
http://www.kyokiren.net/_recture/taishouhyou
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/education.html
何よりも「国家」が国民のためにあるのであって、決して「国民」が「国家」のためにあるのではないという観点に立たない限り、「教育」などというものは成り立たないのです。
自分たちにとって都合のよい「国民」を育てるのが「教育」であるなどという考え違いを持った輩が権力を握っている限り、この国に真の「教育」は存在できないということを多くの人びとに知ってもらいたいと思います。