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0108 タイムスリップ 宮天狗 2006/09/18-07:06:37
お年寄りが3人寄れば昔話に花が咲きます。「新兵時代は古参兵のいじめが悔しくて夜布団の中で悔し涙を流したもんだ。戦地に行くといじめはなくなった代わりに敵の銃弾が飛んでくる。いつ死ぬかもしれないのにやつらをやっつけることしか考えなかったから怖くはなかった。戦争が終わって内地に帰れると思ったらシベリアに連れて行かれ、ろくなものも食わされずに厳しい寒さの中で重労働させられた。俺は何とか生き残ったけれど栄養失調で死んでしまった戦友がかわいそうで仕方がない」とAさん(85歳男)。「こっちだって大変だった」とBさん(81歳女)。「あの空襲(1945年7月12日宇都宮)のときはほんとに怖かった。一晩中逃げ回って次の朝帰ってみたら見渡す限り焼け野原で私の家なんか跡形もなかった。幸い家族はみな無事だったけれど、気の毒に隣の奥さんが焼夷弾の直撃を受けて亡くなってしまったの」。「あのころは着るもの食べる物みんなないない尽くしで、1反のさらしや1個のおにぎりがまるで宝物みたいに見えたものね。そんなこと若い人に話しても思うように通じなくて」とCさん(84歳女)。
こもごもそのもどかしさを訴える中でBさんがふと漏らしたつぶやき・・。「でも私たちだって60年、70年前から一足飛びに今の時代にやってきたら、本当だって信じられるかしら?」に一同しゅんとして声なし。
1940年ころは東京でもほとんどの民家は木造平屋か二階建て。都心部に下水道は敷設されていたとはいえ、水洗便所にお目にかかることは滅多になく、電話や風呂があるのはかなり裕福な家庭に限られ、自家用車にいたっては到底手の届かない高嶺の花。そして特高や憲兵がいたるところで目を光らせ、天皇の写真が子供の命より大切にされていたのですから。
こうしてみると高齢者は途方もない激動の時代を生き抜いてきたわけで、反面「敬老の日」はあってもその経験や知識が生かされることもなくなってしまった。しかし61年間平和を保って一人も殺すことなく一人も殺されなかったのは貴重な事実です。元寇の乱の折西大寺の叡尊上人は「東風が吹いて兵船を本国に吹き送り、来人を損なわずして乗る所の船を焼失せしめ給え」と大菩薩に祈ったといいます。たとえ敵であっても命は尊重する。その心をこの国のみならず世界に広めたいものです。