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0107 憲法と教育の改悪に反対 くぬぎ林 2006/09/11-14:57:56
 今度安倍某が自民党の総裁に立候補するに当たって掲げた政策は、教育法その他の変改と改憲である。
 改憲の目標は、戦争をしない、軍隊を持たないと決めた憲法を、戦争をする憲法、軍隊を持たなければならない憲法に変えるということであり、教育を変えるというのは、文部科学省、それを代弁する校長たちのいうことに盲従して、勉強せず、ひたすら学校の建物に拘束される教師を作ること、実体は非愛国的な、怪しげな愛国心を、教師と学生、生徒に押し付けることである。
 わたしは個人としては、戦後のデモシカ先生たちに、ひとりでちゃんと勉強することを説かないで、ひたすら楽天的な標語ばかりをわめいていた日教組教育の欠点も認めるものであるが、それを変えるのが、その組織の体制批判能力を剥奪し、いわゆる上からの力に盲従する教育者をつくることであるのは、とんでもない改悪である。
 小学校の児童でも、教科書以外のことを沢山知っていて、自分でものを考えられる教師のほうが好きなのである。すくなくもそういう児童をつくるのが教育というものである。

 こういった安倍の政策を準備してきたのが小泉であり、彼の靖国参拝などである。
 靖国に祀られているのは、常識的に考えれば、徴兵で戦争に引っ張り出されて人殺しをさせられて戦死した悲しい犠牲者である。
 それゆえ、天皇が名指したといわれる、三国同盟の推進者の松岡、白鳥といった連中や、満州事変の演出者で三国同盟を天皇に嘘をついてまで推進した板垣征四郎などの、戦死者でない人間を祀るのは、いわゆるA級戦犯か否かにかかわらず私は反対なのである。
 ところが小泉は、靖国神社に感謝の参拝に行くと称している。悲しい犠牲者を悼むのでなく、それに感謝するというのは、多大の犠牲をつくりだした戦争をしたことに、そういった戦争の推進者に感謝するのだと考えるほかない。 多大な犠牲者を出した事態を起こしたことに対しては、そういったことが二度と起こらないようにしようというのが常識で、その犠牲者に感謝する人間は正気ではない。
 我々は,お国という妙なもののために死ぬのはお断りだし、そういう幻想のために殺された人々のために痛恨の気持ちはもつが、お国のために死ぬことを肯定することはまったくできない。

 これに付随して考えられるのが、秋篠宮家に男子が生まれて、男女同権になった時にすぐに行われるべきだった、皇室典範の改善がまたどこかにとんで行きそうなのも困ったことだと思う。多分これも現在の政治状況を象徴しているのだろうが。

 戦後の民主化が不充分で、国民が主権者であって、妙な権力者面をする人間を作り出さないことが国民の責任であるという自覚が十分でなかったことが、今日の状況を生み出したと思うが、これについて論じると長くなりすぎるので、それはつぎの機会に譲ることにする。

 ただ、最後に私は、主権在民と個人の尊厳を信じていることだけは、今ここで断っておく。