| とにかく私は苦労して来た。 苦労して来たことであった! そして、今、此処、 机の前の、 自分を見出すばっかりだ。 じっと手を出し眺めるほどの ことしか私は出来ないのだ。
外では今宵、木の葉がそよぐ はるかな気持ちの春の宵だ。 そして私は、静かに死ぬる、 座ったまんまで、死んでいくのだ。 ・・・・・・・中原中也(わが半生)
彼は肉体が本当に「死んでいく」とはいっていない。苦労の繰り返しに耐えられないと言っている。 春の宵の、心騒ぎ、何となくなまめかしい風の香りの中で、「もうこれ以上苦労に耐えられない」と歌っている。
この詩人の言葉は、現代の多くの老人たちの気持ちを代弁しているように見える。
全ての現実が真っ暗闇に閉ざされたと思えるとき、陽射しの色が春めいたことを唯一の救いに感ずる、という感性は、多くの日本人に共通した季節感である。 しかし、彼には、そんな感性はない。ただ、あるのは、【又季節が巡ってきた】という切実感だけだった。
わたしにはこの感性は不幸に見える。わたしは、春のなまめいた空気に生きる実感を感じたいタイプである。 しかし、年老いての【苦労】は、中也の歌うように【耐えられない】というのは切実に感じる。わたしの住んでいる団地でも、何人かの老人の不幸な話を仄聞する。
中也の生きた明治、大正と平成の老人の感性が重なり合うところに、小泉政治の行き着く先が見えるように思えてならない。
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