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0079 応援・後援 百山 2006/03/06-13:21:15
 肩を落とし、精根尽き果てたかのように悄然と下がっていく後ろ姿。その姿も含む土俵の内外でのパフォーマンスは、一際大きな拍手や 時には失笑をも誘う。盛り上げに一役も二役も買ったご祝儀袋の束は、勝ち名乗りを受けた相手の手中に。勝つか負けるか、非情の世界そのものである。

 スポーツや演芸の世界に止まらず、青雲の志を抱いて旅立つ者たちへの人々の応援は、自然の成り行きとして後援会などを形ずくる。中には、追っかけなどと言う主客転倒を思わせるものや、集めた会費と共にドロンなどという笑えぬものもあるが、それはそれとして、善意の集合を目の当たりにするのは微笑ましいの一語に尽きよう。
 それは何時の頃からのものなのか、「末は博士か大臣か」などの言葉がもてはやされた遙か以前の頃からも、純粋さや多少の偽善さを含むとしても、様々な世界での雄飛を目指す者たちへの周囲の温かな励ましとしてあり続けて来たものなのであろう。

 改めて周囲を見やり一番先に思い浮かぶのは、一票の積み上げを生命線とする「先生」方のそれではなかろうか。
 近時当地の政界は、再選を目指す現職とその対立候補やいかにの知事選で賑々しい。
 地盤固めを必須と見る現職は、全市町村に後援会をの号令とともに、中央政界とのパイプの太さを誇示するよすがとして目論んだ現職国会議員を顧問にの思惑は、刺客として舞い降りたものの比例区での復活しか果たせなかった議員の一人に「自分の後援会も出来ていないのに」と見事に外されたとか。

 だが、「先生」方の後援会というものには、スポーツなど他の世界とは異なる不純さがちらつく。
 それは、その成り立ちの根っこに「利益誘導」や「持ちつもたれつ」などの、あからさまにはし難い何かが見え隠れするからであろう。
 その暗黙の了解は、時には「先生」と「後援会」との間に局地的な力関係の逆転現象をも生みだし、「地元のことは後援会に」という棲み分け・ボス支配の容認へと進む。
 このような現実の前には「先生」といえども無力に近く、「落ちても猿は猿だが」の言葉の前に「政治家の良心」も棚に上げての日々を送らざるを得なくなる。
 引退した保守系の大物が、思いもしない平和主義者的発言をして世間を驚かすのは、「後援会・議席の確保」という頸城から解き放たれての自由がもたらしたものと見るのは皮相であろうか。
 じゃりタレか何かでもあるまいし、全体への奉仕が使命である筈の政治家の「後援会」ほど有害なものはない。
 しかし、ドブ板を踏んでの選挙スタイルが無用となる日が来るまではこの害毒は流し続けられる。これを必要悪の一つと言う物わかりの良さは、政治的精神年齢では何歳と称するのだろうか。