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0071 百山 2006/01/09-13:47:26
 その時から今日まで、長いこと抱き続けている違和感がある。それは昭和の50年代半ばだったか、もう終わりの頃だったか、今に続く「税を知る週間」のその年の初日、都心の国税機関のビルに真新しい垂れ幕が下がり、それには標語の入選作であろうか「税は社会の会費です」とあった。
 税は会費?、素朴な疑問である。会費というものは、その中で特別とか普通とかの区分を設けるものがあったとしても、それぞれにおいては均等負担が鉄則である。国民に上下の区分がないのは当然であるが、税負担の場に持ち込むこととは次元が異なるの思いは、今なお拭いきれない。

 昨年、地元紙に「週間」の応募作文の県内最優秀作に選ばれた生徒の紹介記事が載ったが、その中に 配られた資料の「税は会費」に共感して書き上げたとの下りがあった。
 だいぶ前から「税負担の平準化」なる言葉が税務当局から流布されてきたが、次代を担う生徒にまで浸透を進めているのを知って、抱く疑問符はますます大きくなっていく。

 いよいよ大増税時代へ突入とか。恰好のターゲットである消費税は、その率の上げ幅に関心を集中させ、引き上げ必然・この程度に収まるならの地均しに忙しい。
 昨年末のTVでは25パーセントと唱える国会議員まで現れ、その論拠は、1パーセントが2兆円相当だから所得税もいらなくなるというもの。帳尻だけを見ればまさにその通りというしかない。
 以前 老人党の掲示板にもあったが、所得の多い人は多く消費するから税負担も多くなり、したがって 一番公平な税制なのだと言う。
 徴税というのは、公共需要を充たすための単なる金集めだと言うのだろう。そしてこの考えは「平準化」という名分のもと、既に住民に対する各種課税の現実となって推し進められている。
 
 だが本当にそうなのだろうか。税制というものは、共同して作り上げていこうとする社会の理想像というものを根本に置き、それを実現していくための確乎たる理念が透けて見えてくるものでなければならないと思う。
 消費も担税も、その源は全て所得につきる。棺に納められるのは、あの川の渡り銭だけという習わしに待つまでもなく、所得のない世界は 消費もまたないのである。
 野放しの「所得」とその結果としての「消費に寄りかかった税制」は、どのような灯りをともしてくれるというのだろうか。