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0069 「民営化」と「みんなのもの」 千葉の菊 2005/12/26-01:52:45
前世紀の末から日本では「国鉄」をはじめ「電話」「高速道路」「郵便」など「みんなのもの」(公共の機構)が次々と民営化されました。
「何のための民営化か」というと「非効率」な(無駄が多い)経営を「競争原理」を導入することで「効率的」にするためだそうです。
それではなぜ「非効率」だったのでしょう?
たとえば「国鉄」や「高速道路」の場合、多くの政治家が「採算」や「必要度」とは関係なく自分の選挙区に「鉄道」や「高速道路」を多額の税金を使って建設させ、その運営に膨大な赤字を生む結果となりました。(「民営化」に当たり、この件について責任をとった政治家の存在を私は知りません。)
官僚たちは自分たちの権益を守るため、天下り先のグループ企業や関連企業と癒着して、法人の財産と巨額の税金をむさぼりました。
つまり「みんなのもの」を特定の人たちが「私物化」していたのです。
こういったことは「民営化」によって解消されたでしょうか?
「国鉄」を引き継いだ企業はグループ企業を出身者の元の地位に基づいた受け皿とするとともに、グループ企業内の業務をグループ企業でまかなわせようとしています。
そして本来の業務である「公共交通機関」としてよりも、グループ企業の「ビジネス」に熱心です。
典型的な例が「えきなか」で、改札口の中にショッピングセンターをつくって客を集め、駅周辺の商店街を疲弊させています。
他の例を見ても「民営化」されたことで「みんなのもの」は「みんなのもの」としてよりよいものになったのでしょうか?
単に「便利になった」「安くなった」という観点だけではない面もとらえる必要があると思います。
私が子どものころ、多くのものが「みんなのもの」でした。
風呂は銭湯に行きましたし、テレビは近所の家に見に行きました。
電話も「呼び出し」が当たり前でした。
交通手段も歩いたり自転車に乗る以外はバスや電車でした。
「高度経済成長」を経験して、そういったものが「各家庭」のものとなり、いつの間にか「個人」のものになってしまいました。
それが「みんなのもの」である「地域」「国」「世界」にとって「当たり前」のことなのか、本当によいことなのか、考えてみてもよいのではないでしょうか。
「子ども」も本来は「みんなのもの」「社会の宝」であり、親は自分の子どもといえども「社会から預かっている」にすぎず、いずれは社会に返さなければならないのです。
「教育」というのは「子どもが社会の一員として育つための手助け」をする社会の働きではないでしょうか?
そうした考え方が、昨今の子どもが犠牲者となる事件を防ぐ力にもなると思います。