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0055 「痛い」と言えることの大切さ 桃李 2005/09/12-06:57:33
最初に。今回はちょっと長く書きましたよ。
選挙が終わって・・・考えることがありました。それは、政治やマスコミの中に潜む我々への麻酔にかからないように、これからはもっと痛みに注意を払わなくちゃいけないということ。

「火中の栗を拾う」ということわざがあります。この言葉の意味は「他人の利益のために危険をおかしてバカな目にあうこと」です。でも、熱さを感じる神経がちゃんと働いていれば、栗を拾わないで「あつい!」とか「痛い!」といってとっさに手を引っ込め、自分をケガから守るでしょう。

今回の選挙、小泉さんは国民に麻酔をかけるのが上手だった。日本国民の中では「火中の栗」のたまらない熱さを想像できなかった人が多かった。そういうことでしょうか。
投票にいかなかった人、投票にいった人も投票箱にいれられた票と引きかえに、じりじりと熱く焼ける栗を自分からその手につかんでしまったの?

ただいまのところ日本国民の中で、自分を中層階級以下だ。と思う人たちはかなり増えました。そして、火中の栗を拾わされるのはおおかた社会的に弱い立場の人たちです。

あとからでもいい。握ったものが熱すぎてやけどをしそうだと思ったら、ひとりひとりがその栗を、ぽーんと ほん投げて、「熱い!」「痛い!」と訴えてください。

「痛みを感じる」ということはときには命を守るほど、危険をさけるために重要な感覚です。もし、自分の心や体の痛みに無感覚になったら、麻酔をかけてどこかを切り取られだらだらと血が流れても、自分で気がつかない。そういうことです。

これから50年後はわかりませんが、今の日本は、言論の自由がまだある。人たちは猿ぐつわをされて拷問を受けるということはない。だからもっとこれからは、市民生活の中ですなおに「痛い!」といえる環境を維持することも大切だと思います。しゃべりあうだけでも、いろいろな社会的な痛みで心細くなっている市民にとっては「みえない力」になるのではないか。

自分で「痛み」がわからなかったり、他人の痛みを想像する気持ちをわすれたら、自分を大切にしたり、他人の人生を尊重する気持ちはうまれません。

どうぞ自分の「痛み」に敏感でいてください。そういう人がこのさき、もっと必要です。そういう人たちが、生活や貧困、教育にたいする痛み、病気でも、悩みでも、いろんな痛みをはなす必要があるときにはなせる場所、社会をつくると思うのです。

戦争体験も同じだと思います。私の亡くなった身内は、無かったことのように語らないで、忘れたように暮らさざるを得ない人たちが多かった。

護憲や老人党、そのほかで体験者が自分の「痛み」と必死に向き合いながら戦争について語ってくださる話を聞いていると、私にはその恐怖がこれまでになく生々しく感じられました。

「痛い!」「怖い!」「私は戦争を仕掛けたり、自分が戦争に巻き込まれるのはいやだ!」そういう気持ちが強烈になってきました。「痛み」、「恐怖」はそういうふうにして、ほかの人間を助けるきっかけとしても重要です。

「痛み」をきちんと感じて対応できることは自分を守ることです。そしてそこからうまれる想像力が、他人をも助けることにもつながります。

自分らしく生きていきたいと思う社会の中で、「痛み」をきちんと感じて表現し、対応できる。このことが、金持ちもそうじゃない人もどんな人にとっても、いろんな場面で「自分だけでなく他人の人生を大事にする社会」をつくって暮らしていく「かなめ」になると思うんです。

政治家だって私生活は心から晴れやかで幸せとは限りません。私の目の前で、平凡な結婚をした私をうらやましいといってぽろぽろ涙を流した政治家の娘の顔を、ときどき思い出します。

だから私は、政治家さえも自分が幸せなのか、痛みがないのか、もっと敏感になってもらいたいと思います。政治をおこなう人自体が、自分の人生の痛みに無感覚になって、それをみてみぬふりでごまかしているところがあるような気がします。それになれてしまったら、国民の痛みなど、到底わかるわけがありませんからね。