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0053 8月の思い出 宮天狗 2005/08/29-05:39:54
東京で焼け出されて以来あちこち転々としていた母と私は、終の棲家を求めて1945年8月8日東北線の列車で北に向かっていました。母と世間話をしていた隣の席の女性は辺りを見回しながら声を潜めて「広島が大変なことになったらしいですよ」「そういえば敵は新型の高性能爆弾を投下した、と書いてありましたね」。たったこれだけの会話でも、いたるところに目を光らせていた憲兵や特高の耳に入ったらただではすまない時代だったのです。
よく晴れ渡ったあの8月15日正午、かろうじて焼け残った性能の悪いラジオの前に集まった人々の中には、途切れ途切れの昭和天皇の放送を聴いてそっと目頭を押さえている人もいました。「神国日本」の不敗を信じていた人にとっては青天の霹靂であっても、多くの人はうすうす感づいていて「ついに来るべきものが来た」と腹をくくっていたようです。しかしこれからいったいどうなるのか?という不安はずっしりとのしかかり、誰もほとんど口を利くこともなく散ってゆき、母もたった一言「負けたのね」とつぶやいただけでした。
10日ほどして内務省は月末の占領軍進駐に備えていち早く「慰安所」の設置を指令し、皇軍の大陸における行状を知る地元の長老は「女は絶対に家から出てはいけない、また万一の場合に隠れる場所を用意しておくように。男もやむを得ず出かけるときは、白い手ぬぐいかハンカチを敵兵に出会ったときの白旗とするように」と指示しました。8月30日連合軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥は厚木に颯爽と降り立ち、すべてを失った敗戦国日本の新しい歩みはここから始まりました。