呼出完了
0041 思い出 百山 2005/06/06-00:29:45
 無情にもそれは無骨な火箸からこぼれて、ひらひらと勝手口の土間に落ちていった。なぜそこに居たのか。
 男子厨房に入るべからずの教えそのままに育てられたのか、佇まいのかけらも思い出せないのに、あの光景だけは今でも鮮やかに甦る。

 薄っぺらだが朱色で曲線の地模様まで施された小綺麗な紙片。目の前に落ちたそれを、勝手口に立つ人に渡そうと拾い上げた瞬間、思いがけない声が頭上から降ってきた。「汚い!」。
 それは、今まで聞いたことのない鋭く険しい語調の母の声であった。だが、差し出した子供の手から直に受け取るのをためらうかのような手の揺れに、それは いつもの声の「どうぞ」に変わっていた。

 神国日本の大和民族は他民族より一段上とする優越思想。それに裏打ちされた差別意識。
 その人は、一目でそれと判る桶を林立させた 馬に引かせるような重そうな荷車を、幅広の引き紐を肩に掛けいつも一人で運んでいるくみ取り屋の小父さんだった。今で言う3Kは、「よその国の人」の仕事であり、「近づいては駄目」が子らに対する教えであった。

 母は、どこであのような仕草を身に付けたのだろう。
 近隣諸国との間に横たわる大海原の波高きを覚える昨今、その根底にかの時代の意識の残滓はないのだろうか。
 杞憂かどうか、長じても口に出して問えなかった一つだけ棘が刺さったままの母の思い出、それの去来するこの頃である。