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  明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術(第十八期)
笹井明子    −    2020/08/01 02:51:41
感動したり面白かった映画・本・音楽・美術などを紹介しあい、共有しましょう。
0007 パンケーキを毒味する パンドラ 06/26 09:55
 
映画のお知らせです
「新聞記者」などの映画を作ったプロダクションが
制作したドキュメンタリー映画です
「パンケーキを毒味する」
7/30日公開で、敢えて東京オリンピック開催中にぶつけたそうでし
菅総理の人物に迫る内容で
前川喜、石破茂、その他多彩なキャスト(?)が出演します
早速この映画制作側のツイッターが凍結されたそうです
私は
右翼の街宣等で上映中止になる前に見に行こうかと思っています

https://www.pancake-movie.com/ 
 
0006 歴史と歌と(4)(民衆運動と歌−2) 流水 10/03 11:14
 
🔶添田唖蝉坊

壮士節も、川上音二郎のオッペケケ節も、憲法が制定され、自由民権運動が下火になるにつれ、一時の勢いを失っていた。
その後を継いだのが、添田唖蝉坊。

自由民権運動の活動家が歌う壮士節やオッペケケ節に影響を受け、この世界に入った。
唖蝉坊は、演歌から政治的主張を排除した純粋な演歌の道を目指して、自分自身で演歌の歌詞を書き、演奏した。いわば、明治の「シンガーソングライター」。
彼が日本の「シンガーソングライター」のはしりと言われる所以である。

彼は、1905年(明38年)に知り合いの演歌師から依頼され、「ラッパ節」を作った。
これが大流行。一躍有名人になった。ここから唖蝉坊の変身がはじまる。思想的には、平民社の堺利彦と知り合ったことが大きかった。唖蝉坊の歌は堺から大きな影響を受けた。

※ラッパ節
http://www.youtube.com/watch?v=wDRuiCn19HY&list=RDwDRuiCn19HY&start_radio=1&t
=49


※社会党ラッパ節
http://www.youtube.com/watch?v=UxNNYxo6Lok

※足尾銅山ラッパ節
http://www.youtube.com/watch?v=FsNEr92rBD4&list=RDwDRuiCn19HY&index=6

※富の鎖 平民社社会主義の歌
http://www.youtube.com/watch?v=BwGZPjoLdqU&list=RDwDRuiCn19HY&index=14

※嗚呼革命は近づけり・・・添田唖蝉坊が一高寮歌(嗚呼玉杯に花受けて)の節で歌い有名になる
http://www.youtube.com/watch?v=tpGGbqjWWRk

※幸徳秋水を弔う革命家⇒この歌は添田唖蝉坊に直接関係ないが、上の歌をなぞっている。
http://www.youtube.com/watch?v=5xPiNLXp0Mc&list=RDtpGGbqjWWRk&index=2

※大杉栄追悼歌⇒この歌も上の歌と同じ。唖蝉坊と関係ないが、強く影響を受けている。
http://www.youtube.com/watch?v=SrqINqKsULg

🔶唖蝉坊の書いた労働歌
※あきらめ節 1906年 明治39年
http://www.youtube.com/watch?v=q7GsHYOZB7w
※ああ踏切番
http://www.youtube.com/watch?v=wxrBvU9D-8s

※解放節
http://www.youtube.com/watch?v=jmOsY6PIeY4&list=RDwxrBvU9D-8s&index=9

※貧乏小唄(船頭小唄の節で)
http://www.youtube.com/watch?v=aBmJzbpmg60&list=RDwxrBvU9D-8s&index=12

※労働問題の歌 この歌に掲載されている写真が見もの。堺利彦、竹久夢二、中里介山などが写っている。
http://www.youtube.com/watch?v=yC8UHtH1YuU&list=RDwxrBvU9D-8s&index=21

※新トンヤレ節
http://www.youtube.com/watch?v=XLf6eAxAZw8&list=RDwxrBvU9D-8s&index=15

※浮草
http://www.youtube.com/watch?v=4WEWiAprRa8&list=RDwxrBvU9D-8s&index=28

※四季の歌
http://www.youtube.com/watch?v=dRr-jW80Xj0

※地震小唄(船頭小唄の替え歌)
http://www.youtube.com/watch?v=EYESAQNsxuM&list=RDwxrBvU9D-8s&index=30

※デカンショ節
http://www.youtube.com/watch?v=SwtX8baSvag&list=RDwxrBvU9D-8s&index=38

※新ノーエ節
http://www.youtube.com/watch?v=qc8khSe_gyo

彼の関係した歌の一部を紹介したが、ファッショ体制下の厳しい思想統制時代(特に労働運動、社会主義運動)をきわめて洒脱に、時には笑い飛ばし、時には真正面から、時には斜めから洒落のめし、批判しながら、生き抜いてきた。
1930年に引退するまで、唖蝉坊は、183の曲を残したと言われている。
彼の後は、息子添田知道が継いだが、添田唖蝉坊の碑は、浅草、浅草寺の鐘楼下に添田知道筆塚と共にある。

わたしは巨大な権力との戦いには、がっぷり4つに組んでは駄目。土俵一杯走り回り、飛び回って、スキを見つけてはけたぐりをしたり、足を取ったり、引き技をしたりと相手の力を利用した戦いをしなければ生き残れないと思っている。

レーニンの言葉に、「一歩前進、二歩後退」というのがある。
戦前の日本のような巨大なファッショ的国家体制に戦いを挑むには、はた目には“後退”と見えても、最優先課題は生き残る事、という柔軟な戦術がいる。

添田亜蝉坊の戦いは、文字通り、歌を武器に攻めたり、引いたりの頭脳的な戦いだった。
彼の一生は、見事なまでの強権的権力との戦いの一生だった、と思う。歌を武器に最後まで一歩も引かずに戦い抜いた一生だった。

🔶歴史と歌の結語

以前にも指摘したが、“歌は世につれ 世は歌につれ”というものはない。“歌は世につれ”以外ない。しかし、フォークゲリラが全共闘運動に共鳴する若者を育てたように、世の中を主導する歌を生み出した反体制運動は強い。

幕末の“ええじゃないか運動”のように、大衆を狂奔させるエネルギーを生み出す場合もある。
明治維新を成功させた薩長軍は、“宮さん、宮さん”の歌とともに、江戸へ進撃した。これもまた
明治維新成立の大きな要因の一つになった。

ちなみに“宮さん、宮さん”は、長州藩の品川弥二郎が作詞、大村益次郎作曲とされている。
http://www.youtube.com/watch?v=DVc-UNU48g0
※品川弥二郎 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/100.html?c=0
※大村益次郎 http://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/6
ちなみに司馬遼太郎の「花神」は、大村益次郎を描いた小説である。
※花神 http://bookmeter.com/books/7110552

つまり、時代の“歌”を制すると言う事は、時代の気分を制する事につながる。“ええじゃないか、ええじゃないか”の気分が時代を制するのである。

一強他弱と呼ばれた安倍政権時代、野党は時代の“気分”を制する事ができなかった。しかし、政権側も時代の気分を制するような“歌”を生み出していない。

野党が菅政権に注意しなくてはならないのは、菅政権の中枢は電通だ、という事である。“電通”が中枢に位置すると言う事は、“時代の気分”を制される可能性が高い。“野党”は意図的に“時代の気分”を制する歌などを積極的に創造する事に力を傾注する必要がある。

民主党が政権を握った時には、“コンクリートから人へ”とか“国民の生活が第一”などという時代の気分を捉えた“キャッチコピー”があった。

選挙もそうだし、大衆運動もそうだが、自分たちが主導権を握った“歌”や“キャッチコピー”をどう生み出すかが成功するかどうかの大きな鍵を握っている。ただただ真面目にスローガンを掲げ、真面目に訴えれば良し、とする選挙や運動は成功しない。

時代を捉えた“理論”と“気分”の双方を持たなければ運動は成功しない。
歴史と歌の関係を考察してきたわたしの結論である。
 
0005 歴史と歌と(3)(民衆運動と歌) 流水 10/02 16:12
 
(1)60年安保闘争から全共闘運動へ

1969年(昭和48年)全共闘運動がピークを迎えていた頃、新宿駅西口広場を多数の若者たちが占拠し、フォークソングを歌っていた。通称、フォークゲリラ。
戦後の学生運動で全共闘運動ほど、歌と闘争が分かちがたく一体化した運動はなかった。
彼らが歌う歌は、古い政治体制や既成の価値観などに対する【抵抗】精神の発露でもあったし、同時に仲間たちの【連帯】の証でもあった。時にはくじけそうになるもろい自分自身に対する鼓舞の歌でもあった。
下にいくつか新宿フォークゲリラの映像と音声、東大安田講堂攻防戦の映像と「友よ!」の歌声を紹介しておく。

昨年ごろ、繰り返し流された「香港民主化運動」の映像と何がどう違うのかを見てほしい。日本警察と香港警察がダブって見えるのは私だけではないだろう。

※中日新聞ビデオ
http://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%8
2%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&docid=608055309317574134&mid=936062E2D22A27528392936062E2D22A27528392&view=detail&FORM=VIRE

※機動隊ブルース
http://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%8
2%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&&view=detail&mid=53DC6D7797F657D9AE8F53DC6D7797F657D9AE8F&rvsmid=936062E2D22A27528392936062E2D22A27528392&FORM=VDRVRV


1969年10月21日 国際反戦デ―
http://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%8
2%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&&view=detail&mid=7C5811EBDE68D019055B7C5811EBDE68D019055B&&FORM=VDRVSR

東大闘争安田講堂(友よ!)
http://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%82%af%e3%8
2%b2%e3%83%aa%e3%83%a9+%e6%96%b0%e5%ae%bf&&view=detail&mid=145285D31A417A51C0FF145285D31A417A51C0FF&&FORM=VDRVSR


その10年前、戦後日本で最大の大衆運動が起きた。安保闘争である。全学連主流派が主導して国会突入を図り、機動隊との衝突の中で東大生樺美智子さんが死亡した。これで闘争に火が付き、全国各地でデモが頻発した。しかし、運動もむなしく、強行採決された安保条約が自然承認されてしまった。その夜、国会を包囲した人々の間から自然発生的に【赤とんぼ】の歌が歌われた、と吉本隆明が書いている。(筑摩書房 戦後日本思想体系 ナショナリズム 解説)

10年後、新宿に集まった若者たちフォークゲリラたちが歌った歌との落差が、10年間の日本の大衆運動の深化を物語っている。
新宿に集まった若者たちは、自ら作り出した手作りの歌を武器に自らの闘争を戦っていた。

このように、大衆運動と歌は切っても切れない。同時に、大衆運動で歌われる歌を見れば、当時の大衆の心理が垣間見える。

60年安保闘争の記録は、以下でどうぞ。
NHK放送史
http://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030036_00
000



(2)江戸〜明治〜大正時代の大衆運動と歌

🔶江戸(ええじゃないか騒動)
江戸時代にも大衆運動はあった。その大半は農村の「百姓一揆」とか都市部の「打ちこわし」という形を取り、広範な大衆運動的形態を取る事はなかった。

大衆運動的形態と歌が絡み合ったものは、幕末の「ええじゃないか騒動」に尽きる。
百姓一揆や打ちこわしのように飢饉が原因ではなく、豊作なのに、その分け前がもらえないで取り残された使用人や若い衆が災厄払いの「勝手正月」と称して踊り狂った。金持ちたちの貪欲さに対する見事なしっぺ返しだった。これが東海道から全国に広がり、ついには幕府を倒す大きな要因になった。当時の世相(気分)と歌と踊りが合体した見事な大衆運動だった。

大会社はしこたま儲け、余剰金を積み立てているのに、非正規労働者や下請けなどはほとんどその恩恵に預からない。平成の世の労働者と瓜二つ。
幕末の若者たちは、踊り狂い、歌い狂って、幕藩体制の屋台骨を揺さぶった。
平成の若者たちは、ハロウィンで踊り狂うのだろうか。

🔶明治時代の大衆運動と歌

▼地租改正反対一揆
明治時代の大衆運動は、「地租改正反対一揆」に始まる。
明治新政府が全国一律の税率(地価の3%)を制定。これが江戸時代より高い税率になることが知られ、全国的に地租改正反対一揆がおきる。特に伊勢暴動(いせぼうどう)は、三重県、愛知県、岐阜県,堺県まで広がった一大騒擾事件。逮捕され投獄された人数は、5万人を超えた。
この騒動で地租は、地価の3%から地価の2、5%に下がる。(竹槍でどんと突き出す二分五厘)

▼不平士族の反乱 (佐賀の乱〜西南戦争)

明治政府の廃藩置県(1871)と徴兵令(1873)により、ほとんどの武士は失業した。金禄公債証書によりいくばくかの失業手当が出たというものの、武士と言う身分が消滅した衝撃は大きかった。
不平士族の扱いをどうするか、は新政府の大きな政治課題にならざるを得なかった。

そんな中で沸き起こったのが、【征韓論】。西郷隆盛などの主張は、不平士族の不満解消のため(働く場所を与えるため)韓国を征伐すべし、という内政的事情に基づくものだった。
大久保などの主張は、日本の近代化が先で、今戦争などする余裕はないと言う主張だった。
この二つの主張がぶつかり合い、西郷たちの主張が敗れ、下野した。

いわゆる【明治6年の政変】である。
かれら征韓論者は、一斉に下野し、それぞれの地方に帰った。

この時、下野した征韓論者を中心として、いくつかの士族の反乱がおきた。
佐賀の乱(江藤新平)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱である。
そして最後に起きたのが、西南戦争である。日本国内で起きた武力による最後の内乱事件。

▼自由民権運動

西南戦争で西郷が敗れたことにより、不平士族たちは、武力闘争から言論闘争へと舵を切った。
いわゆる【自由民権運動】である。
この自由民権運動は多くの抵抗歌を生み出し、日本の演歌の始まりとなった。
少し、演歌の歴史を追ってみる。

★演歌のはじまり
◎書生節⇒明治初期、書生(現在で言う大学生)が歌った流行歌⇒「書生、書生と軽蔑するな、末は太政官のお役人」など。
※「よさこい・書生節」http://www.youtube.com/watch?v=nVKdr5KfN1I

◎書生節が政治・社会に対する批判を強め、街頭で歌われ始める。(1883/明16年ごろ)⇒自由民権運動と結びつきを深める。⇒歌を演説に変える⇒「壮士自由演歌」「壮士節」
⇒演歌のはじまり。

川上音二郎 「オッペケペ節」が代表。日本のラップのはじまりとかヒップホップの始まりともいわれる。
日本最古の音源 川上音二郎一座
http://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%82%B1
%E3%83%9A%E3%83%BC%E7%AF%80&tid=2d05b3fa1e1b42aa98c6f8042e72c5d7&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1


壮士節の代表曲 
◎ダイナマイト節
http://www.youtube.com/watch?v=AmegfQjtB8k&list=RD8TuMWzJd6RM&index=2

◎植木枝盛の「人権数え歌」
http://www.youtube.com/watch?v=sA_Ym-nx6_U&list=RD8TuMWzJd6RM&index=9

◎明治初期の流行歌 (梅ケ枝 裁量節 等)
http://www.youtube.com/watch?v=kusg349IcMg&list=RD8TuMWzJd6RM&index=11

しかし、明治20年代後半になると、新しく普及し始めた唱歌や軍歌に押され、衰退した。

◆西欧音楽の導入
“ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開化の音がする”
明治新政府は、社会のあらゆる分野に西欧文明の導入を図った。音楽分野も例外ではなかった。
宮廷の雅楽家⇒国際儀礼のために洋楽を学ぶ。
陸海軍の軍楽隊⇒規律訓練や士気高揚のため、洋楽を導入
文部省⇒国民意識涵養のため、唱歌を積極的に教育。⇒洋楽の積極的導入

明治初年、日本に洋楽を導入したのは、キリスト教教会をのぞけば、全て国家機関。⇒洋楽導入は、国策。
目的⇒江戸時代の民衆は、「藩意識」はあっても「国家意識」はなかった。明治新政府の狙いは、中央集権国家建設のため、国民意識を「藩意識」から「国家意識」へと転換させることにあった。
洋楽導入は、その大きなツールの一つだった。

その一つの成果が、海軍軍楽隊と宮廷の雅楽家が協力して作った【君が代】である。明治新政府の近代化方針が具現化されたもので、成立当初より政治的性質を帯びていたのも無理はない。

◆唱歌

その中で最も成功したのが、【唱歌】であろう。
国民意識醸成(日本人としてのアイデンティティ醸成)のための装置としての学校教育の中で、最も成功した学科が音楽であろう。小学唱歌は国民の意識の中に深く根ざし、国民が日本人として自分を意識できる共通の財産になった。
この唱歌は非常によくできており、行事・季節・テーマ別など多岐にわたっており、歌を通して日本人としての自覚や誇りを身につけるように工夫されている。

一例をあげよう。正月の歌を見てみよう。

「春の海」「お正月」(もういくつねるとお正月)1900年。「1月1日」(年のはじめのためしとて)1894年。
「雪」(雪やこんこん)「早春賦」(春はなのみの)その他「越天楽」「高砂」なども入っている。
小さいときからこの種の歌を歌っていれば、正月はどう過ごすべきか、などと説教しなくても、自然と身に付く。
唱歌にはこの種の工夫が無数になされており、洋楽を通じた日本人としての「メンタリティ」や「アイデンティティ」を涵養するという狙いが見事に貫徹されている。

最初に紹介した60年安保闘争で安保条約が自然成立した時、国会を取り巻いた民衆の中から自然発生的に歌われたのが、「赤とんぼ」。小学唱歌である。
この挿話一つでも、如何に小学唱歌が成功したか想像できる。

※唱歌の歴史 明治・大正・昭和
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/shoka-history.html

◆軍歌

もう一つ忘れてならないのが軍歌。明治政府は、徴兵令を敷き、国民皆兵制度を創設した。軍隊こそ、「国民意識の涵養」が最も必要な組織。同時に、戦闘意欲を掻き立てなければならない組織。本当の意味での戦闘意欲は、恐怖支配だけでは生まれない。本人の心からの意欲が必要。天皇中心の「愛国心教育」を強化。その一助として「軍歌」は、重要な役割を果たした。

※明治時代の軍歌
軍歌で振り返る明治の日本 前篇 黒船来航〜陸海軍省設立
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24493043
日本陸軍分列行進 歩兵の本領
http://www.nicovideo.jp/watch/sm737645
戦友
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24522381
橘中佐
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24484685
広瀬中佐
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18617678
出征兵士を送る歌
http://www.nicovideo.jp/watch/sm714942
軍艦マーチ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4413922
愛国行進曲
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4413512

雪の進軍
http://www.youtube.com/watch?v=LWdPpq2lNZs
敵は幾万
http://www.youtube.com/watch?v=2fomHmRf2-A

この中で【戦友】だけは、ある種独特な地位を保っている。この歌は、戦場で倒れた戦友と突貫(突撃)命令を受けた自分の心の葛藤を主軸に描かれており、戦争や戦場の惨さを浮き彫りにしている。

戦友の(2番)         (3)番
思えばかなし 昨日まで     ああ 戦いの最中に 
真っ先かけて 突進し      隣に居りし わが友の
敵を散々懲らしたる       俄かに はたと倒れしを
勇士はここに眠れるか      我は思わず 駆け寄って

(4番)            (5)番
軍律厳しき中なれど        折から起こる 突貫に
これが見捨てて 置かりょうか   友はようよう顔上げて
「しっかりせよ」と抱き起し   お国のためだ 構わずに遅れてくれな」
仮包帯も弾のなか        と目に涙

(6)番            (7)番
あとに心は残れども       戦いすんで  日が暮れて
残しちゃならない この身体   さがしに戻る 心では
それじゃいくよと 別れたが   どうぞ生きていてくれよ
永の別れと なったのか     ものなど言えと 思うたに

(8)番
虚しく冷えて魂は
国へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いているのも情けなや

後にこころは残れども/残しちゃならないこの身体/ と私情と兵隊としての自分との引き裂かれた心情を切々と歌っている。

ここで歌われている戦場は、おそらく203高地の地獄のような攻防戦が想定されている。日本陸軍の「突撃攻撃」の悪しき伝統は、203高地の攻防戦から始まった、というのが定説。大将乃木希典は、自分の子供もこの戦いで失っている。
日本陸軍の精神主義のはじまりの戦いであろう。

どんなに精神主義を高揚しようと、突撃させられる兵士たちは生身の人間。どの戦場でも、隣に居りし わが友の/ 俄かにはたと倒れしを/ という実例は山ほどあった。その中で人が死ぬ事に慣れてしまった兵の精神の荒廃が、多くの戦場での蛮行につながっていることを忘れてはならない。

その意味で、【戦友】と言う曲は、戦場でも人間性を失わない兵士を描くことで、ある種の反戦歌的要素を漂わせてくれる稀有な「軍歌」と言わねばならない。
 
0004 歴史と歌と(2)―「死んだ男の残したものは」 流水 09/26 15:00
 
(1)「死んだ男の残したものは」の背景

先日、久しぶりに「死んだ男の残したものは」を聞いた。

ベトナム反戦の声が叫ばれていた1965年、作詞谷川俊太郎・作曲武満徹という当時の日本を代表する俊才二人によって作られたこの曲は、多くの歌手によってカバーされている。今回聞き直してみると、当時はあまり見えていなかった歌の深みが見えてきた。

作詞した谷川俊太郎は、1931年生まれ。父親は、哲学者谷川徹三。1945年の東京大空襲を経験している。作曲した武満徹。1930年東京生まれ。軍隊経験あり。ほとんど独学で現代音楽作曲家として第一人者となる。

両者に共通しているのは、東京生まれで戦争体験者。特に谷川は、東京大空襲で戦争下での庶民の惨状を最も感性の鋭敏な時代に経験している。

「死んだ男の残したもの」の歌詞には、この谷川の経験が随所にちりばめられている。

「死んだ男の残したものは」
1.
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

2.
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった

3.
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

4.
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

5.
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

6.
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない

谷川の戦争の記憶は、2番と3番の歌詞に凝縮されている。

死んだ女の残したものは/しおれた花とひとりの子供/他には何も残さなかった/着物一枚残さなかった

大空襲の惨禍は、空襲の後、外に出た時、はっきり見えたはずである。必死に子供をかばって息絶えた女は、焼夷弾によって着物もほとんど焼かれていた。息絶えた彼女の傍らには、熱でしおれた花と泣きじゃくっている子供だけがいた。

また歩いていると、死んでいる子供の姿にも遭遇した。爆風によってねじれた脚。ほほに残った涙の後。どれだけ痛かったか。どれだけ苦しかったか。こんな小さないたいけな子供が死んでいる。思いですらこの世に残せなかった。まして、生きている痕跡も言わずもがな。

おそらく、谷川の脳裏に刻まれた戦争の記憶は、上記の2番3番に凝縮されている。

そして、谷川にとって、歴史とは、[死んだかれらの残したものは/生きてるわたし生きてるあなた/他には誰も残っていない]

谷川は、決して「国破れて山河あり」とは、歌わなかった。生きてるわたし/生きてるあなた/と歌う。何より人間を大切にしている。だから、6番で「死んだ歴史の残したものは/輝く今日とまた来る明日/・・」以外にないと歌う。何より人間に興味がある谷川俊太郎らしい歌である。

(2)歌手による曲の解釈
この歌は多くの歌手によってカバーされている。代表的な歌手を紹介しておく。

森山良子
http://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0%E7%94%B7
%E6%AE%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE&tid=b620c63067ca992cc7261f9a1019807a&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1


高石友也
http://www.uta-net.com/movie/242057/0eCmsG36NAY/

友竹正則
http://search.yahoo.co.jp/video/search?rkf=2&ei=UTF-8&dd=1&p=%E6%AD%BB%E3%82%
93%E3%81%A0%E7%94%B7%E6%AE%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE


カルメン・マキ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8396462

長谷川きよし
http://www.youtube.com/watch?v=EYCaLh9vDE4

🔶森山良子にしろ、高石友也にしろ、友竹正則にしろ、みなうまい。彼らに共通しているのは、一種の明るさである。時代は高度成長期のとば口。それほど豊かとは言えなかったが、【貧困】とは程遠かった。

貧しさと貧困は違う。わたしたちの学生時代は、みな貧しかった。ボロ服を着て、ろくなものは食えなかったが、明日の日を絶望してはいなかった。水前寺清子の「ボロは着てても 心の錦」が実感でき始めた時代のとば口だった。現代の【貧困】は、明日の希望が持てない時代。心の灯が消え去ろうとしている時代。

だから、フォーク歌手の彼らの歌う「死んだ男の残したものは」には、ある種の希望があった。

🔶ところが、カルメン・マキと長谷川きよしの歌は、3人とは違う。もう一つ深い情念が込められた歌だと思う。

ほとんどの方がご存じだと思うが、この二人は、存在それ自体が他の歌手とは全く違う。舞台に立つだけで、周囲が全く異質な空間になる。歌は歌手の人生それ自体を映し出す鏡のようなものだと言う事が実感できる。

🔶最後に紹介したいのは、わたしに遠い青春時代のこの歌を思い出させてくれた現代の歌手。【樹根】という歌手である。

静岡県を中心に活躍しているそうだが、素晴らしい歌唱力の持ち主である。
彼がアップしている「死んだ男の残したものは」は以下で聞ける。
http://www.youtube.com/watch?v=unNgJVgSVuk&list=RDplb-qwPQAX8&index=16

【樹根】という歌手の歌をもう一つ紹介しておく。「カルチエラタンの雪」。元歌は布施明。カルチエラタンとは、1960年から70年代に青春を送った人々には懐かしい場所である。フランスの学生運動が燃え盛った場所でもある。

http://www.youtube.com/watch?v=Tg67aAeRUNU&list=RDH-Vkp2H5oUw&index=26

「死んだ男の残したもの」のような時代を切り結ぶ歌を歌うには、歌手の人生それ自体が問われる。時代と歌手の向き合い方が問われる。

詳しくは知らないが、【樹根】という歌手の人生には、それなりの辛酸が込められているはずである。そうでなくては、あんな歌は歌えない。そうでなくては【樹根】などという名前は付けないはずである。おそらく、フランスの作家ジュネをもじっているはず。ここに彼の韜晦が込められている。
※ジャン・ジュネ  フランスの詩人・小説家。代表作 泥棒日記 
 
0003 歌を演じきった歌手;ちあきなおみ 流水 09/07 01:11
 
「艶歌」が歌謡曲の主流だった時代、売れる歌手を見つける一つの法則があった。

『不幸の味』
どんなに素晴らしい歌手であっても、売れるためには、どこかしら『不幸の味』がしなければならない。大衆はその「味」を敏感に嗅ぎ分ける。その歌手がどんなに歌がうまくても、どんなに美人であっても、それだけでは売れない。どこかに『不幸』の匂いがする歌手が売れる。
五木寛之の説である。

そう言えば、美空ひばりもそうだし、藤圭子もそうである。わたしはこの二人を戦後を代表する女性歌手だと考えているが、どちらにも常に『不幸の匂い』がつきまとっていた。

『不幸の味』は女性歌手に似合う。

演歌が大衆の“生きる悔しさ”に対する応援歌だとすると、美空ひばりも常に家族の悩みを背負って生きてきた。美空ひばりは幸せな結婚生活を送れなかった。

藤圭子もしがない旅の浪曲師だった家族の影を背負い続けていた。
二人にまとわりついて離れないこの「不幸の味」が大衆の心をつかみ、それが彼女たちを不世出の歌手にした。

『生きるって辛いんだよね!』
どんなに売れて、どんなにお金持ちになっても、大衆はこの二人の歌声から常にこの匂いを感じ取っていた。

美空ひばり、藤圭子。
この二人に、わたしは、「ちあきなおみ」を加えたい、と思う。

美空ひばりが作曲家、作詞家の思いや狙いを見事に表現し尽くす天才だとすれば、藤圭子は、その顔や表情と歌う声のギャップの凄さが大衆の心を掴んだ。

それに対して、ちあきなおみは、作曲家・作詞家の思いや狙いをはるかに超えた自らの情念を歌の世界に託して演じきった天才である。

【歌を演じる】
ちあきなおみの歌は、溢れんばかりの『情念』がほとばしり、鬼気迫る表情で歌を演じている。

彼女に匹敵する男性歌手は美輪明宏以外ないだろう。ただ、美輪明宏の歌は、何となく作られた匂いがするが、ちあきなおみにはそれがない。理由は単純。彼女が本物の女性だからだろう。

『歌を演じる』彼女の代表作が、【朝日のあたる家=The House Of Rising Sun】 。
(あさひのあたる いえ、英: The House of the Rising Sun)は、アメリカ合衆国の伝統的なフォーク・ソング。 

“Rising Sun Blues”とも呼称される。娼婦に身を落とした女性が半生を懺悔する歌で、暗い情念に満ちた旋律によって注目された。"The House of the Rising Sun" とは、19世紀に実在した娼館、または刑務所のことを指すという説があるが、確証はない。「朝日楼 / 朝日樓」とも表記する。 ‥ウィキペディア

この歌は、多くの歌手がカバーしている。その中でちあきなおみの歌がいかに凄いか。下にいくつか代表的な歌手のカバーを列挙しておくので、比較してみてほしい。

(米国などの歌手)
元々、米国の民謡をアニマルズが歌って、世界中にブレイクした。
http://www.youtube.com/watch?v=w4DgaTAUAbI

わたしたちには懐かしいジエーン・バエズも歌っている。
http://www.youtube.com/watch?v=rD80eZ6Gxz0

年取ったバエズの演奏はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=XopwrdwkFaI

ボブ・デイランの歌はこちら
http://www.magictrain.biz/wp/blog/2010/07/21/「朝日のあたる家」ボブ・ディラン
:house-of-the-rising-sun-bob-dylan-1962/


Odettaの歌はこちら
Odetta→日本ではオデッタ・ゴードンの名で知られている。フォーク歌手。人権活動家。
http://www.youtube.com/watch?v=Aaya8jYZBO8&list=RDAaya8jYZBO8&start_radio=1&t
=31


(日本)
浅川マキ(彼女は“朝日のあたる家”を翻訳している。ちあきなおみも彼女の翻訳で歌っている)
http://www.youtube.com/watch?v=cqMjPghOKXQ

内田裕也
http://www.youtube.com/watch?v=kwOA2WQgaNM

モップス
http://www.youtube.com/watch?v=nOwNbWQQ3i0

山口百恵
http://www.youtube.com/watch?v=H5ALdlEoyJg

最後にちあきなおみの【朝日のあたる家】
http://www.youtube.com/watch?v=8wydnzOt2OU

わたしの母の田舎では、60年に一度「荒神神楽」という神楽の中でも特殊な神楽が舞われていた。(現在では人口減少で行われていない。わたしも一度だけ見たことがある。)その時、村人の中から霊感の強い人間が選ばれて、【神や神や】(ごうやごうや)と叫んで神が下ってくるのを待つ儀式がある。

※比婆荒神神楽 
http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/05_vol_103/feature03.html

学問的に言えば、比婆荒神神楽は中国山地に秘匿された神懸かり(託宣の古儀)を伝承する古風な神楽で民俗学的に価値の高いものとして評価されている。

その時に選ばれた人間は、本当に口から泡を吹いて、まるで憑き物が付いたような状態になる。いわゆる【憑依】というものである。神楽は夜行われる。田舎の神社は大方が大きな木々に囲まれている。周りは漆黒の暗闇で、かがり火の中でこの【憑依】した人を見た時は、背筋がぞっとした。この時の経験は忘れられない。

ちあきなおみの【朝日のあたる家】を聞いた時、わたしはこの時の感覚を思い出した。ある人が「アングラの一人芝居」を観たような気分だ、と書いていたが、同感である。まるで一本の映画を見終わったようなぞくぞくっとした充足感に襲われる。

こんな歌手は後にも先にも「ちあきなおみ」以外いない。彼女が憑依したのではない。主人公の女性に憑依し、それを演じきったのである。

こんな歌手は疲れるだろう。おそらく、彼女の一曲歌うごとの疲労感は、他の歌手の何倍にもなったのではないか。

夫の死後、彼女が華やかな舞台から身を引いてもう30年以上たつ。一体、彼女に何が起こったのか。
・・・
彼女の夫、郷えい治は、俳優宍戸錠の弟。わたしも彼の出演した映画は何本も見た。2人は1973年ごろに出会い、78年に結婚。郷は92年9月11日に55歳の若さで他界したが、約20年も「相思相愛の仲」だった。
二人の合言葉は、「好きな歌、好きな芝居、好きな仕事だけ」。郷えい治は、ちあきなおみの生き方に強烈な影響を与えた。

※郷えい治の画像
http://www.bing.com/images/search?q=%e9%83%b7%e9%8d%88%e6%b2%bb%e3%81%ae%e6%9
8%a0%e7%94%bb&qpvt=%e9%83%b7%e9%8d%88%e6%b2%bb%e3%81%ae%e6%98%a0%e7%94%bb&form=IGRE&first=1&scenario=ImageBasicHover


ちあきは「父親は死んだ」と聞かされて育ったが、父親は生きており、彼女が有名になるにつれ、しばしば金の無心に現れた。郷えい治と結婚してからも、金の無心は止まらなかったが、そんな彼女を郷えい治は最後まで守り通し、決して父親に会わせなかった。

ちあきなおみは本当に郷えい治を愛していたのだろう。郷の遺言「もう無理して歌うことはないんだよ」を頑なに守り、歌を忘れたカナリアになった。

ちあきは母親が亡くなると都内に墓碑を建て、郷さんもそこに眠る。2000年には墓から近いマンションに移り、生涯、母と夫を供養する覚悟で生活しているそうだ。
・・・・
http://www.zakzak.co.jp/ent/news/190712/enn1907120001-n1.html
(上の記事をわたしなりにまとめたもの。)

今のちあきなおみの心情に近いと思われる歌を彼女は歌っている。

「冬隣」。吉田旺作詞、杉本真人作曲
http://www.bing.com/videos/search?q=%e3%81%a1%e3%81%82%e3%81%8d%e3%81%aa%e3%8
1%8a%e3%81%bf%e3%80%80%e5%86%ac%e9%9a%a3&&view=detail&mid=7CB1C2D63677C59332547CB1C2D63677C5933254&rvsmid=D8C2BB818D5476863AF8D8C2BB818D5476863AF8&FORM=VDRVRV


あなたの真似して お湯割りの
焼酎飲んでは むせてます       
つよくもないのに やめろよと
叱りにおいでよ 来れるなら        
地球の夜更けは さびしいよ
そこからわたしが見えますか 
この世にわたしを置いてった
あなたを怨んで飲んでます

写真のあなたは若いまま
きれいな笑顔が憎らしい
あれからわたしは冬隣 
微笑む事さえ忘れそう
地球の夜更けはせつないよ・・・
そこからわたしが見えますか
見えたら 今すぐ すぐにでも
わたしを迎えにきてほしい
     
地球の夜更けは さみしいよ
そこからわたしが見えますか
この世にわたしを置いてった
あなたを怨んで飲んでます

「不幸の味」を売り物にしなければならない宿命に疲れ果てた「ちあきなおみ」が、はじめて見つけた、夫郷えい治との幸せな生活。彼女にとっては何物にも代えがたいものだったのだろう。

夫の死後から23年たった彼女の姿が、撮られている。
http://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1612324/

夫の墓前で祈る老いた彼女の姿は、時の流れの無情さを感じさせるが、彼女の心の時間は、夫との別れで止まっているのだろう。こんな風に愛された郷えい治はさぞかし幸せだろう、と思える。

夫との死別後、何十年も、心の中の夫との生活に生き続けられる女性などそんなにはいない。

彼女は最後まで、心の底から憑依できる歌手であり続けているようだ。
 
0002 不屈の男 瀬長亀次郎に見る政治家の原点 流水 09/03 13:49
 
CSの番組で映画「米軍が最も恐れた男 瀬長亀次郎」を見た。

戦後すぐの沖縄の映像がふんだんに使われており、わたしたちには馴染みの薄い戦後すぐの沖縄の状況が手に取るように分かり、沖縄の人々の粘り強い「反基地闘争」の原点がよく理解できた。

沖縄統治に絶対的権力を振るっていた米軍に対し、沖縄県民の誇りを賭け、一歩も引かずに戦った瀬長亀次郎という人物の凄さと魅力が十二分に描かれている。

亀次郎の略歴を見てみる。
1907年 沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に誕生
1932年 治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で投獄
1936年 沖縄朝日新聞記者になる
1938年 兵役召集され「中支」へ
1940年 復員し、毎日新聞那覇支局記者になる
1946年 うるま新報(現、琉球新報)社長に就任
1952年 第1回立法院議員選挙で最高得票数でトップ当選
1954年 沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕
1956年 那覇市長選に出馬し、当選
1957年 市長の座から追放 *瀬長布令
1966年 瀬長布令の廃止により、被選挙権を回復。
1968年 立法院議員選挙で当選
1970年 戦後沖縄初の衆議院議員に当選 *以後7期連続当選
1990年 衆院議員勇退
2001年 死去 *享年94歳

この略歴の中で特筆すべきは、1946年(昭和21年)にうるま新報(現、琉球新報)の社長になっている事である。ここには、戦後米軍が沖縄統治、日本統治に乗り出した時の方針が良く見える。

米軍は、戦前日本の国家主義的思想を徹底的に排除し、日本を民主主義国家にしようと考えていた。これがGHQの日本統治の基本方針。当然、沖縄も同じ。

だから、瀬長亀次郎のように戦前治安維持法で二回も逮捕された前歴の持ち主でも積極的に登用したのである。


瀬長亀次郎は、1947年、沖縄人民党(共産党)結成に参加。1952年の第1回立法院議員選挙では最高得票数で当選を果たす。

この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。
(※亀次郎は、沖縄はあくまで日本国である。琉球国という独立国ではない、と考えていた。おそらく、彼は米国が沖縄を琉球国として認定したのは、沖縄と日本を切り離し、米国が沖縄を完全な植民地としようとしているためである、と考えたからだろう。そのため、彼は琉球国政府創立式典で断固として宣誓拒否をしたのである)

そのため、1954年、瀬長亀次郎は、逮捕される。(沖縄人民党事件)

当時を知る人の回想では、おそらく亀次郎は、獄中で殺されるだろうと考えていたそうだ。

当時の米国は、占領当初の米国とは事情が違っていた。社会主義国ソ連が、米国最大の仮想敵として浮上していた。社会主義、共産主義、労働組合、労働運動などに対し、GHQは厳しい姿勢で臨み始めていた。日本国内でも様々な形で事件が起きていた。瀬長亀次郎の逮捕(沖縄人民党事件)はその文脈で考えなければならない。

しかし、瀬長亀次郎は、大手を振って出獄。そして、1956年に、那覇市長選に出馬。当選する。

亀次郎を危険人物と見なす占領軍は、那覇市政に介入。占領軍出資の銀行による那覇市への補助金や融資、預金の凍結などを行う。

多くの市民が米軍の弾圧に苦しむ瀬長亀次郎市長を助けるため、自主的に納税を行い、納税率は97%になる。⇒自主財源による公共事業の再開など市政の危機を脱する。

しかし、占領軍の介入はそれに止まらなかった。議会の中に反瀬長派を結成させ、7度に亘って市長不信任案を提出させた。しかし、瀬長派はいずれも否決。占領軍の思惑通りに行かなかった。

ついに占領軍は最後の切り札を切った。いわゆる瀬長布令である。

1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)、瀬長は追放され、投獄の過去を理由に被選挙権も剥奪された。

市長在職は一年足らずだったが、那覇市政を巡る占領軍(米軍)との攻防は、那覇市民の絶大な支持を得た。

亀次郎は、那覇市役所を去る時も、胸を張って堂々と立ち去った。いずれの日にか、必ず、占領を終わらせる、という自信に満ち満ちていた。それほど彼の闘いは見事なものだった。圧倒的な力を持った占領軍(米軍)が一人の市長を叩き潰すために全力を傾けていた。亀次郎が米軍を恐れていたのではない。米軍が亀次郎を恐れていたのである。亀次郎の闘いは、沖縄民衆の心に染みわたった。

その後、1966年12月に被選挙権剥奪規定廃止で被選挙権を回復。翌年、拒否されつづけたパスポート取得が17回目の申請で許可され、11年ぶりの上京。1968年 立法院議員選挙に最高得票で当選する。1970年、戦後初の国政参加選挙で衆議院議員に当選、以降7期連続当選を果たした。1990年に衆院議員勇退。2001年10月5日死去。享年94。

亀次郎は「ガジュマルの木」が大好きだったそうだ。ガジュマルの木は根が複雑に絡み合っている。これは、民衆が複雑に手を組み合って生きていることを彷彿とさせる。彼は、ガジュマルの木を「どんな嵐にも倒れない。沖縄の生き方そのもの」だと言う。

亀次郎の碑に大きく書かれた文字がある。
『不屈』
沖縄の人々の闘いそのものである。


(PS)今、自民党総裁選が行われようとしている。人気NO1の石破茂が絶対勝利できないように、地方の党員が投票できない方式で選挙するようだ。
石破を封じ込める自民党役員「二階幹事長など」のやり口を見ていると、亀次郎を封じ込めようとする占領軍(米軍)のやり口そっくりである。

権力者は常に臆病である。どんな些細な事柄でも、『蟻の一穴』になる事を恐れている。自分たちの統治の安定が少しでも壊れるのを恐れている。

石破が自民党を離党して、徒手空拳の闘いを挑めば、多くの国民が支持するだろうが、それだけの政策的魅力も度胸もないだろう。

わたしは、亀次郎の役割を野党に担ってもらいたい。何度も書くようだが、野党の諸君には、『自分が政治家になった原点』をもう一度見直してほしい。国民は、本当に身を捨てて戦う野党の政治家を見捨てはしない。

それから、もう一つ、亀次郎から学ばなければならない事がある。手垢に汚れた決まり切った言葉で語らないでほしい。亀次郎は、朴訥であっても「自らの言葉」で語りかけている。それが沖縄の人々の心に直截に届いている。
今、野党の中でそれが出来ているのは、山本太郎だけ。彼の存在が貴重なのは、今の閉塞感に満ちた人々の心に直截に突き刺さる言葉を紡げるからである。

この映画の亀次郎と佐藤栄作首相の沖縄返還に関する議論を聞いてほしい。
佐藤栄作は安倍首相の大叔父だが、自分の言葉で亀次郎と渡り合っている。立場の違いはどうあれ、政治家とはかくあらねばならない、という見本に近い国会でのやり取りである。

現在の国会の形骸化の最大の要因は、自らの言葉で語らず、官僚のペーパーなど他者の言葉でしか語らない政治家の言語の貧困にある。

野党が政権を奪還するためには、手垢にまみれた他者の言葉から、自分自身の信念から紡ぎだされた『言葉の復権』こそ、最大の武器だと言う事を心に刻み込む必要がある。
 
0001  明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術(第十八期) 笹井明子 08/01 02:51
 
感動したり面白かった映画・本・音楽・美術などを紹介しあい、共有しましょう。
 
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